The Spirit Of Homeopathy:Rajan Sankaran

Rajan Sankaranサンカランは、世界的に著名なインド人ホメオパスである。彼が若き日に著したこの著作「The Spirit Of Homeopathy」は世界中のホメオパスに多大な影響を与えた。そして、ここで彼は初めて「Delusion」という考えを”病の源流”であると捉えた。

ホメオパシーではいかに人を見てゆくのかが最大のテーマである。ホメオパシーの勉強の中心は決してレメディを覚えることではなく、まさにこの1点に尽きると言っても良いだろう。「人間」〜この複雑怪奇なるものは、いかに科学が進歩しテクノロジーが発展してもそうたやすくはその本体を見せてはくれない。ホメオパシーの醍醐味はまさにここにあるといっても良いだろう。

サンカランが到達した「人間」の見方は、今や、世界中のホメオパスのスタンダードになっている。

2004年6月20日 関西での勉強会がいよいよ始まった。進捗に合わせて順次まとめてゆきたい。
尚、この内容については勉強会の成果(毎回翻訳担当者が違うため)をそのまま転用はせず、統一感を出すため僕の意訳を掲載した。文章がおかしい場合は僕の国語能力に問題がある。この点、ご了解頂きたい。

NEW!2006.2.3
お知らせです。約1年半に渡り続けて来た「サンカラン勉強会」ですが、下記翻訳書があまりに素晴らしいため、ここで、あえてこの名著の翻訳を掲載する意義が弱くなってしまいました。それで、この『The Spirit of Homeopathy』の翻訳は、第11章を持ちまして一旦お休みさせて頂きます。サンカランの基本については、この第11章までにほとんどのエッセンスが含まれており、これまでの僕らの翻訳の試みは、一定の成果を得、その役割を終えたと自己評価しています。第12章以降のこの本の内容については下記ご案内をご参考に各自お求め頂ければと願っています。皆さんの長い間のご愛読ありがとうございました。

さて、僕らの勉強会ですが、引き続きテーマを代えて続行する予定です。現在メンバーの間ではサンカランの哲学の源流でもある『ケントの医学哲学講義』(日本語訳)を輪読してゆく予定です。こちらも順次要約を掲載していきたいと考えていますので、ご期待下さい。


<お知らせです!>
大阪八尾にて「ホメオパシー私塾」を主催されておられる渡辺奈津医師がこのたびホメオパシーの基本哲学書「The Spirit of Homeopathy」の翻訳本を完成されましたので、ご紹介させて頂きます。僕も拝見しましたが、翻訳が素晴らしい。

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「ホメオパシーの神髄」〜The Spirit of Homeopathy〜
ラジャン・サンカラン著/渡辺奈津訳 定価¥5,000(税込)
書店では取り扱っておりませんので、ご希望の方は以下まで直接お申込み下さい。
mail:ホメオパシー私塾事務長尾崎さん
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Let's Study Homeopathy!


<目次>
NO.1 PARTT-1〜2:040707
NO.2 PARTT-3〜4前半:040805
NO.3 PARTT-4後半〜5:040908
NO.4 PARTT-6途中:041018
NO.5 PARTT-6最後まで:041128/更新日050131
NO.6 PARTT-7途中まで:050130/更新日050223
NO.7 第7章最後から第8章前半:050228/更新日050501
NO.8 第8章後半:050328/更新日050502
NO.9 第9章 中心的乱れ:前半:050424/更新日050503
NO.10 第9章 中心的乱れ:中盤: P.62〜:050528/更新日050625

NO.11 第9章 中心的乱れ:後半:050626/更新日050725
NO.12 第10章 症状のダイナミズム:更新日051116
NO.13 第11章 薬の何が治癒をもたらすのか?:更新日051116

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<NO.1 PARTT-1〜2>

第1節

第1章:ホメオパシーとは何か

ホメオパシーとはドイツ人医師サミュエル・ハーネマン(1755-1843)によって作られた医療体系である。それは同種療法の原理を基盤にしたものである。つまり「実際に、健康な人が飲んだ時現れる症状を引き起こすものを、その症状が起きている人が飲むと治すことが出来る」という意味である。

「似たものが似たものを治す」

例えば、もしある健康な人が砒素を飲んだとしよう。すると彼は吐き気をもようし、泥水状の下痢をし、頻脈と衰弱を起こすことになる。彼の皮膚は冷え、表情は心配気になる。
また、もっと少なく且つ長期間飲んだとすると、どうなるだろうか? 彼は鼻水が止まらなくなり、頭が重くなり、咳き込んで、気管支カタルになるだろう。それからしばらく時間が経った時でさえ、皮膚と神経の不調は続くだろう。彼の身体は焼けるようであり、それは暖かさで改善する。そして喉が渇くため、頻繁に水を飲む。死を恐れ、落ち着かず、正午と深夜に体調は悪化するだろう。

似たものが似たものを治すというホメオパシーの原理によれば、こうした症状をもった数えられない人たちがArs.(ホメオパシーの薬:レメディ)によって癒され続けて来た。それは病名に掛からずである。(コレラ・風邪・湿疹・喘息、など)
この原理はインドの詩人Kavi-Kalidasaの詩に以下のように表現されている。

Shruyate hi pura loke, vishaya visham aushadam.(ヒンズー語)

これを訳すとこういう意味になる。
「古えよりこの世で伝えられてきたことあり〜毒をもって毒を制す。」
ヒポクラテスもこの原理をこう表現した。
「似たものは似たものによって癒される」

ホメオパシーの臨床においては確固とした基本原理に基づいて行われる。
まず第一に”プルーバー”と呼ばれる生きたボランティア達によって実際に飲んでテストされたレメディが、それぞれの特徴を明確にして行く。プルーバーたちが実地に経験した情報が、レメディの症状像になる。それは正確に記録され、マテリアメディカMMという薬効書としてまとめられる。
そのMMの中から、患者の症状像に最も類似したレメディを見つけ出して行くのである。
(つまり似たものが似たものを治すのである)


「ポーテンタイゼイション(エネルギー化)」

ハーネマンはその科学的な経験をつんでゆく過程で、ポーテンタイゼイションというレベルに達した。徐々に希釈と振蕩をしてゆく毎ごとに、レメディはその内在する力を発揮し、同時に現物質が持つ薬害を減らして行った。このことは現代医学における薬物中毒や副作用の問題とまったく対照的なことである。

ホメオパスが取り扱うポテンシーは母液に始まり、10万回の希釈・振蕩したもの(CM)まである。例えば、「6C」のポテンシーは荒っぽく言うと、湖に母液を1滴たらした程度の薄さである。それぞれのポテンシーはそのひとつ前のものよりも100倍に薄められたものである。10万回それを繰り返すということがどんなことなのか想像できるであろうか!

このように驚くほど薄められたものがどのように作用するかを一体誰が説明できようか?しかもハイポテンシー(薄められもの)ほど非常に強力に作用するのである。ポーテンタイゼイションの過程を経る毎に、原物質に内在していたエネルギーが解放されていっていると考えられる。


「内在する治癒力」

ホメオパシーを実践していると、医師はあることに気づくに違いない。つまり、身体というものは、その身体各部分の総和をずっと上回る何ものかであるということである。身体は自律的に成長をとげ、機能し、自らを修復する。
古代人はこのことを美しく表現した。

「自然治癒力!」と言う言葉である。

この自然治癒力とは生命機能そのものである。ハーネマンはこの力を”バイタルフォース”と呼んだ。病とはこのバイタルフォースの乱れである。
雨に打たれた人が10人いるとしよう。この中で肺炎に罹る人は1人はいる。多くの細菌が人体に浸入して来るにも関わらず、治癒力が衰えている時だけしか、病気になることはない。
ホメオパシーのレメディは、この自然治癒力の乱れを修復するのを助けるのである。そうすることで、身体自体の治癒力を強めることになるのである。レメディは患部の症状を取り除いたりするものとは違い、原因を治癒し、健康を回復させてゆく。
ホメオパシーによれば、症状とはバイタルフォースの乱れの現れに過ぎない。

病気はチューニングの悪い”シタール(インドの弦楽器)”に似ている。個々の音符ではなく”チューニングの乱れ”が病気ということである。そういうシタールは美しいハーモニーとは程遠いものである。個々の音符を調整したところで、役には立たない。チューニングの乱れこそが治すべきものである。


「その人全体を治療すること」

もうひとつのホメオパシーにおける根本的な原理は患者を全体として、個人化して治療することである。何か特定の病気にたいしての治療ではなく、病気に苦しんでいる患者そのものにたいしての治療である。「個人化とは特定の病気にではなく、存在の実体に対するものである。」とウイリアム・オスカー卿は述べている。ホメオパスはその人個人を見極めながら、同時に現れているすべての症状について考察する。レディメイド服のセールスマンでさえ、個々の部分の採寸をした上で、その人に合うレディメイド服を作ろうとしている。
それと同じように、ホメオパスは、その患者の過去や家族の病歴、本人の食欲、喉の乾き、便通、睡眠、等など、そしてすべての内で最も重要なこと。即ち彼の気質について尋ねることになる。

最近、身体と心の内的な関係性についての理解は受け入れられつつあるようである。われわれは今や病に対して精神・身体的概念として全体的に見てゆくことを急速に理解し始めている。ハーネマンはこのことをずっと昔に理解していた。身体的あるいは精神的症状はともに一緒になって、病気の症状像を形作るものだということを知っていた。ホメオパシーのマテリアメディカMMには多くの精神症状が載っていて、我々はこれを使ってレメディを選んでいる。

患者に今現在起きているある問題は、通常はそれ単独に起ってきたものではない。それ大きな流れのなかの一部である。家族の病歴や幼少期の色んな出来事が考慮されるべきであろう。
そういうことまで考えることによって、病の進行を止めることになる。ホメオパシー治療を受けている子供はより健康に成長することが出来る。何故なら、彼らは悪い遺伝的要素からより良く開放されるからである。

子供こそは人類の父であると言われ続けて来た。例えば、まだ小さな子供であろうとも、我々は将来起きるであろう病の兆候を知覚することが出来るのである。
ある子供は、枕がビショビショになるほど寝ている時にぐっしょり頭に汗をかくかも知れない。恐らく、この子は泉門が閉じるのも遅いだろう。また、歩き始めるのも歯が生えるのもゆっくりで、泥やチョークをかじる癖があったりする。彼女は扁桃腺が腫れるかも知れない。よく風邪をひき、その度に扁桃腺を腫らすだろう。成長すると、生理はとてもはやく来て、多くの出血をしたりする。彼女はいつも冷えを感じ、エネルギー不足を自覚している。冷たいミルクと卵を欲しがり、咳はどんどんひどくなっていって、夕方熱が出て、それから回復に向かう。そして、レントゲン検査をすると結核が見つかる。

その結核はすべて一度に起きてきたものではないことは誰にでもお分かりになるであろう。子供時代から次第に進行して来たことであり、不健康な兆候はずっとそこにあったわけである。
それらはホメオパシーレメディの「Calc.」を指し示していた。もし、このレメディが子供時代に与えられていたなら、彼女はそのような病気には至らなかったであろう。でもそうなってしまった今になってもホメオパシーによって、彼女は健康を取り戻すことは出来る。こうして多くの健康問題を抱えた子供達はホメオパシーによって回復してきたのである。
良きホメオパスは病気をいかに知覚するか、それがいかなる連続の中で経過して来たものなのかを学んでいるのである。例えば、子宮に問題が始まり、もしその進行を止めるか、治癒させなければ、問題を墓場まで持って行くことになる。症状を和らげたり、楽にする処置は多くある。しかし、ホメオパシーの原理によって治療されなければ、病気の進行を止めることは出来ないのである。

事実、すべてではないにせよ、ほとんどの治療(サイコセラピーや瞑想も含めて)はまさにこの”類似”の法則に基づいている。ホメオパスは注意深くテストされたレメディを科学的且つシステマティックに適用して行くのである。

時に、ホメオパシーの治療過程で、過去に起こった病気が逆の順番で現れることがある。それはまるでフィルムを巻き戻すかのようである。これが起きた時、我々は現在のことだけではなく、過去の原因が治癒され、そして未来は安全であると分かるのである。

ホメオパスにとっては、解剖学、生理学、薬学、外科学、婦人科学の知識は必要である。何故なら、患者を調べ、原因分析しなければならないからである。これによって彼は不調に至る自然な流れを知り、いかにそのケースに取り組むかの助けになるのである。

しかし、ホメオパスの最も大切な仕事はそれぞれの患者の個別性を、充分に正確に理解することである。その時にこそ、正しいレメディを選ぶことが出来る。


「ホメオパシーの薬」

ポーテンタイゼイションの過程を経ることで、物質に内在していたエネルギーが現れてくる。この過程を経ることによって、砂(Sil.)から月光(Luna)に至るまでのものがホメオパシーのレメディとして利用される。

レメディは次のような原料から出来ている。

●Animal Kingdom 動物界

Tarent. くも
Canth. スペイン蝿
Sep.  イカ
Bufo rana  かえる

●Plant Kingdom 植物界

Acon. トリカブト
Bell. なす科植物
Bry. つる科植物
Lyc. スギゴケ

●Mineral Kingdom 鉱物界

Sulph. 硫黄
Calc. 牡蠣の殻/炭酸カルシウム
Nit-ac. 硝酸
Nat-m. 岩塩

●Disease Product 病巣部位(ノゾ)

Tub. 結核菌のノゾ
Pyrog. 腐敗肉汁
Hydrophobinum  狂犬病の犬のよだれ

●Healthy Tissuse &Secretion 健全細胞・分泌物

Thyroid 甲状腺
Pituitary 下垂体

●Imponderable 測れないもの

Magnet 磁気
X-ray X線


「魅力的な旅」

これまで述べてきたことが何かと言えば、それはこのシステムを俯瞰してきたにすぎない。さて、これから我々はひとつひとつを深く学び、そして、健康・病気・治癒についてのホメオパシー的見方についてのとても素晴らしい考え方を体得しようではありませんか。この学びを通じて、我々は如何にしてケースを受け取り、患者の個人性を理解すべきか、また如何にして実践してゆくのかについて分かるようになるでしょう。
さあ、この魅力的な旅に出かけましょう。

(第1章.終わり)


第2章 この本のストーリー

ホメオパシー専門学校の生徒だった頃、我々はホメオパシーのマテリアメディカMMはひどく無味乾燥で、レパートリーは機械的であり、その哲学は理論的過ぎ、時代遅れのものであると考えていた。
特に哲学は我々にとって最悪の代物であった。というのも、それと実際のこととがどう関係するのか理解できなかったからである。実際、我々はその講義にひどくうんざりしてしまい、文字どおり重いものを引きずるかのような状態に陥ってしまった。これが我々のトラブルの始まりだった。
いざ、臨床をしようとした時、学校によってやり方は違うし、ホメオパシーに対して色んな方法があることを知った。あるやり方は病理に基づいて処方し、あるやり方はキーノートに基づき処方し、また別のやり方はレパートリーを利用するものであった。最後のグループの中でさえ、ケントのレパートリーを使うかと思えば、別のところはボガーのレパートリーを使い、また、一部ではベニングハウゼンを使うという有様だった。そして、ある治療家はマヤズムを重視し、別の方は批判的であったりした。こういう状況が我々の混乱に拍車をかけた。


「第1歩」

私は学校を出るとレパートリーを使って仕事を始めた。何故なら、レパートリーに良く精通していたからである。そして、ケースを機械的にレパートライズし始めたのである。私は主に個性的で特徴のはっきりした症状を利用しようと試み始めた。
と言うのも、これらのRublicsは、そこに掲載されているレメディの数が他のRublicsよりも少なく、レパートリーの作業が簡便になるからである。

私は特徴的な症状をいくらか選び、レパートリーで関係があるものを見つけ、それらに共通したレメディを処方した。いくらかのケースではこれはうまく行ったが、しかし、多くのケースではうまく行かなかった。
私は最初の頃にした、自分の祖母のケースのことを思い出す。彼女は嚥下困難だった。私は彼女の次のように捉えた。
"ジャガイモを食べると悪化:G-food,potetoes agg."そして、"飲み込もうとすると窒息しそうで出来ない:Throat,choking,oesophagus,on swallowing" これらのことから、私は Alum.に至り、それによって、祖母は素晴らしく回復した。
しかしながら、多くのケースでは、このやり方では失敗した。そこで、私はあらゆるケースで成功の立証が出来るようなメソッドの探求に全精力を注ぐことにした。 私には分かっていた。診療所こそ最高の実験室だということを。そして、科学的精神こそ最大のツールであるということを。
私が徹底してこだわったひとつの原理は、1回につき、たった一つのレメディと治療方法だけを使うことだった。そして、私は可能な限り、他のすべてのことについて一定の条件になるようにしたのである。このことを通じて、自分の観察を検証・確認してゆくという素晴らしい方法を得ることになった。


「精神Mentalと全体Generalの優位性」

私は学校の同僚のDr.Jayesh Shahとともに、自分たちのケースにおける成功例と失敗例を研究し始めた。そこで、極めてはっきりしたことは、MentalとGeneral面にて処方した場合ある特定の症状や処方の元になる病理を手がかりに処方したものよりもずっとうまく行くということであった。我々はその理由はよくは分からないながらも臨床的な観点から純粋にこの考えを見つけることが出来たのである。そこで、注意深くこの方法を試し始めたのである。
私は”白斑”(後述する「Central Disturbannce」の章に詳しいが)の症状のケースをいまだに覚えている。このご婦人からは次のこと以外の情報は得られなかった。
つまり、彼女はとっても陽気でおしゃべりで、温血で、外気の中を歩くことを好む。

レパートライズすると・・・

ーおしゃべりで冗談好き
ー外で歩くと好転。 そして
ー一般に暖かさで悪化

私はこれらから Kali-i.を選び出した。しかし、Kali-i.には ”皮膚Skin.変色discoloration,白斑white spots”というRubricsには触れられていない。

そこで、疑問が出てくる。 一体このレメディは効果があるのだろうか?

これまで、我々は「MentalとGeneral」を元に、レメディを選んできた。そしてそのレメディは現れている局部的な問題も回復されるという確信を持っていた。このケースが病理についてまったく含んでいない最初のケースになった。そして、病理を考慮に入れなくてもチャンスがあることを私は確信出来たのである。
私はこのご夫人にKali-i.を与え、そして、レメディは素晴らしい反応を見せたのである。

私は自身にいくつかの疑問を投げかけた。何故反応したのだろうか? その原因や治癒のことが知られていないようなことに対してレメディは一体どのように作用したのだろうか? この原理には何が含まれているだろうか?
この時、私は突然納得が行ったのだった。レメディは12C以下にポーテンタイズされたものだった。そこにはただのひとつも分子は残っていない。そこに何が残っているかと言えば、エネルギーだけである。モノが残っていない以上、身体には直接変化をもたらすことは出来ない。身体的にも生理的にも化学的にも何も起こすことなど出来ない。それは”動的変化”しか起こすことは出来ないのである。私の心にピンと去来した一節は「動的なレメディは動的効果のみを持っている。」ということだった。

この一節は私にホメオパシーに対するまったく新しい見方への扉に誘い、真に病気を理解する第1歩となったのである。動的な乱れとは正確に何のことを言うのか? これが問題だった。我々は臨床を通して、次のことを理解した。つまり、「MentalとGeneral」面でマッチしたレメディは、例えその病理についてMMに記述されていなくても、その病理を癒すことになる。我々は患者の中から次のようなことを見つけたのである。
これまで自分たちは「MentalとGeneral」を基にしてレメディを選んでいたのだが、しかし、そうやって選んだレメディが部分的部位の今現れている症状もまたカバーしていることは、確認していたのである。これが、病理や病態をまったくカバーしていない最初のケースであった。


「構成しているもの:ある状況に根ざしたRubrics」

私の理解はこの疑問の開始とともにさらに深まって行った。「Mental精神状態とは何か?」 やがて、ある手がかりをつかむことになった。人間の精神状態を理解することは、その人の精神状態をリストアップすることとは違うということである。
当初、私はそのエッセンスや中心から、その人の精神状態やレメディを理解しようとしていた。しかし、その中心はレメディ全体をカバーするものではないことに気づいたのである。自分が分かったのは、構成という考えによってレメディを理解するアイデアに到達した時である。例えば、”Mind,death,predicts the time of死の時間を予告する”このレメディはAcon.。すぐに2つのことがはっきりした。一つはAcon.は死を恐れること。そして、二つ目は、予知能力があること(透視能力)。つまり、これら2つのものが合わさって、「死の時刻を予告する」という症状を構成しているのである。私はこうした特徴のある構成の組み合わせについて研究を始め、このアイデアは臨床でとても役立った。
しかし、別の疑問が出てきたのである。:この構成をしているものは単純な脈絡のない現象なのだろうか あるいはそれらを結びつける背景が何かあるもだろうか?

その背景と言えるような存在が、Fl-ac.について研究している時に、見えて来たのである。Fl-ac.では、”愛する人に無関心。だが見知らぬ人と楽しげに話す””性的欲求の増進”そして、”モラルの欠如”の3つの観点から捉えることが出来る。もし、我々がこの3つの要素を眺めた時、最初は繋がりがないように見えるだろう。こんな疑問が出てくるはずである。”愛する人に無関心”と”見知らぬ人と楽しげに話す”が一体どのように関係があるのか? ところがある状況下では、この関係を説明することが出来るのである。
すなはち、まったく自分に相応しくない人と結婚したことに気づき、そして、結婚の解消が必要とされる時である。そのような状況下では彼は家族に無関心になり、無責任になり、他の人と交流してゆく中で、性的欲求が増大してゆくのである。私はレパートリーを見て、次のRubricsを見つけた。”MIND:Del,marrige,must desolve 結婚を解消しなければならないという幻想”そして、そこに、Fl-ac.があったのである。

そういう観察によって、私は自分の心に新しいアイデアの波を起こし、ある状況下でのその人のあり方を構成しているものは、無関係なものはないと推論したのである。それらのすべてを構成しているものは、ある特殊な状況下において必要とされているということである。
こういう推論が成り立つ。このレメディはある特定の状況下で描かれていているものである。そして、それそれの患者の状態は、過去のある特定の状況下から起きて来るものであり、彼らは今現在もこのレメディを必要としているということになる。こうした観察からある特定の状況下での生き残りのメカニズムとして病を考えることが明確になって来たのである。こうして、状況的MMという考えが生まれたのである。


「病の根源」

このことを更に考えて行った時、子供でさえも(特別な過去の状況をもっていないような)ある状態(States)になっていることに気づいた。そして大人の場合でも彼の人生における過去の状況の基盤になるようなことを説明出来ないような状態にあることにも気づいた。従って、これらの状態statesは、それより以前の世代から受け継がれて来たものかも知れないという結論に達したのである。私がこの新しい光を当ててケースを見た時、妊娠中の母親の状態statesとその乳児の状態statesとの間に、極めて近い類似性があることを発見した。同時に、私は妊娠期間中の両親の状態statesと子供の状態statesとの間にも類似性を見出したのである。
これが、病の根源という考えがどのように進展して来たかという経緯である。

根源Rootsというのは、それが刺激をされた時、ある特定の病の状態として現れてくる傾向のことである。この傾向は過去(あるいは前世代からの)の特定の状況から影響を受けたものであり、その人にとってはまさに自分が今もその状況下にいるかのような(Delusion)反応を感じてしまうのである。


「Delusion:一体それは本当は何を意味するのか?」

私は、Delusionという項目の重要性を理解することも出来たのである。何故なら、Delusionは現実に対する間違った認識であり、そして、病もまた、現在の間違った認識であるから。人間の全体的な精神状態とは、この間違った認識(Delusion)の表現である。


「精神状態についての理解」

この理解を元に、私はある人の精神状態を理解する方法を更に探そうと試みた。そして、いくらかのテクニックを発展させたのである。一つは夢を使う方法である。というのは夢のテーマは、それを見ている人の状態をよく現す構成要素として出て来るからである。 そして、私はその患者自身が自分を表現する方法や彼を取り巻く人々とどう関わっているのかについても、研究した。こうしたテクニックは自分の臨床の一部になって行った。臨床における新しい理解を元に、多くの考えが更に生まれた。
その考えとは、レメディの関係性、いくつかのレメディにおける状況的MM、そして病理についての考え、ホメオパシー的予後についてである。しかし、もっとずっと重要なことは、健康とは一体何を意味することなのかという疑問を見出したことであり、このことはホメオパシーに関わることだけではなく、一般に哲学にも関わることだということである。


「人生におけるより高次の目的」

私の理解では、健康とは、ある時期において自由であることであり、そして、人生の目的を全うすることである。今ようやく私はハーネマンの洞察したことを理解できたのである。人間とは、あらゆる創造物を含めてではあるが、精神Spiritのひとつの道具であるということ。そのSpiritによって、ある特別な目的が割り当てられているのである。(*Organon/§9)

*Organon/§9
「健康な時、Dynasmis:霊的で非物質的な生命エネルギーは、生命体全体を統御し、我々が一層崇高な目的に向かって邁進することを可能にすべく、私たちの精神に安息の住処を与えるのである。」(学校資料より)

病は、この目的を果たそうとする生命組織の能力に立ちはだかるようにやって来る。何故なら、病は人が現在に反応することを認めることなく、過去の状況に従って反応させるからである。

治療とは健康の再建である。それは人が現実の間違った認識に気づくことによって、成し遂げられるのである。これは彼のDelusionがあばかれることで、可能になる。これこそが、ホメオパシーが基本にすえた”類似の法則”の元になるのである。

こうして、臨床はよりシンプルになった。MMは生き返り、レパートリーのRubricsは新たな意味を持ったのである。ホメオパシー哲学は当初は重々しく引きづられたようだったが、それ自体人生のSpiritとともにあるかのようになったのである。


「洞察を共有する」

この本の章はある特定の疑問ごとに分けられている。それぞれのアイデアは今の私にとってはあまりにも明白なように見えるかも知れない。しかし、それを得るためにはもがき苦しんで来たのである。臨床を通じて、あるアイデアや疑問が心の中にきらめいた。その時は心がその疑問ととっ組合い、眠られない夜を過ごしたものである。
ある解決法に思い当たると、これがまさに次の臨床で試されるということがケースの度に何度も繰り返されねばならなかった。臨床において、厳格で偏見のない判断は、あなたがとても注意深く構築した理論を無常にも粉砕することだろう。実際のテストに耐えたそのアイデアは更なる吟味を受けなければならない。より深い観察がなされて、私は次のステップに進むことが出来たのである。ちょうど、登山家がより高いところに進むために足場を確保するかのように。
困難を重ねたステップの後、私はホメオパシーの理解に近づいたのである。

私は、このすべての洞察を私がしたと同じような困難に臨む臨む学生たちと共有したかった。1986年から1990年の間に欧州とインドで連続セミナーをするのを試みた。このセミナーを通じて、私はノートを作った。それにはセミナーの間での新しい洞察が含まれ、今や統合されて、この本という形として出来たのである。私の論拠が新しいものではないというのは可能であろう。しかし、単に知識を得るということと、また一方で、実際に経験し正確に真実のこととして、何かを強く感じ取るということとはまったく別のことである。

一般に、クラシカルホメオパス達は、この本の様々なアイデアに同意するだろう。しかし、アイデアの中にはホメオパシーでは新しいものであり、あるいは、少なくとも他ではそれほど明確で、示唆的ではなかったはずである。ここでは以下のアイデアが含まれている。ー病の根源、精神の構成要素、DelusionとDreamの重要性と使い方、補償されたあるいは補償されない感覚、ホメオパシー心理療法、状況的MM。
レメディに対する私の見方、そしてその由来する状況situationからレメディを把握するということ、これらがこの本で私が先鞭をつけた新しいマテリアメディカの基盤となってくれることだろう。

もし、あなたがすべての章を読まれたなら、私がして来た考察と取り組み方法についての私の考えを公平に正確に理解して頂けることだろう。各々の章は独立的に書かれている。そこには繰り返しもあれば、連続性に欠けた点も見られるだろう。私のホメオパシーに対する理解がより明確になったとしても、まだ、それは氷山の一角しか見えていないように感じているということを付け加えておかなければならない。つまり、この本は完成しているわけでもなく終わっているわけでもないのである。
せいぜい、私が言えることは、あなたに私の物語を話そうと正直な人間になれたということだろう。そのようにした私の目的は、読者を刺激することだった。つまり、自分で観察し、自分の理論を発展させて行けるようにしてもらうようになってもらうことである。 これを実行してゆくことで、素晴らしいホメオパシーの精神Spiritに触れることが出来るであろうと私は確信している。
真実とはその中にとてつもない深みをもっているのである。

(第2章終わり)

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<NO.2 PARTT-3〜4前半:040805>

第3章 病とはなにか


「アロパシー的見地」

普通の言い方をすれば、“病”は患者に与えられた診断名を指している。我々は“彼女は糖尿病に罹っている。”あるいは“彼の病気は関節性リウマチだ。”などと言う。現代医学は病をこのような系列によって分類し,各々の“病”によって専門家がいる。多額の資金が治療法を見つけ出すためにつぎ込まれ,その時々に,多くの裏付けを持った薬物が現れるが,しかしそれはすぐに消え去ってゆくか,もしくは有害な副作用が暴かれるだけに過ぎない。全体としてみれば,とくに慢性のケースにおいて,こういった類いの研究がもたらす唯一の効果は,その問題に対して一時的な緩和作用を持つ薬物を見つけ出すことであり,それゆえに,副作用があるにもかかわらず量を増やしながら一生飲み続けなければならない。

このような治療の背景にある基本的な考え方は,病は局所的な問題であり,その部分に対処しさえすればそれを解決できる,というものである。糖尿病は膵臓のランゲルハンス細胞の欠損であり,関節リウマチは免疫系の異常によるものであり,てんかんは脳のある部分の局所的な興奮から生じる。このような観点からみれば,彼らがランゲルハンス細胞を刺激するような,または免疫反応を抑制するような,脳を沈静させるような薬物を見出そうとすることは自然なことである。治癒をもたらすこのような手法の不成功,または時間が経てば自然にその問題はかなり減少するということは,他により重要で基本的な要因がそこにある,ということを警告している。

若いホメオパスは,現代医学の“発見”に遅れをとるまいと熱心になっており,糖尿病や慢性関節リュウマチに対する“ホメオパシー的治癒”を見つけ出そうという気持ちに惹きつけられるかもしれない。そして彼はその問題に対処するような特定の薬物や薬物群を見つけ出すという罠にはまる.彼もまた“局所が侵されている”ということに自分の視野を狭くしてしまい,そして失敗に陥ってゆく。

ホメオパシーにはその哲学や基本原理があるにもかかわらず,ホメオパスが患者の示す診断名に重要性を与えてしまうことも時には避けられない。それは恐るべきことだ。しばしば患者が興味を持つことはただ病を取り除くことだけであり,ホメオパスはメディカルサイエンスの知識 ― 彼が知り得ている病因学,病理学,予後学 ― を持つがゆえに,レメディを選ぶ際,しばしば自分の頭から診断名を消し去ることができないことに気づく。彼はそういった病理学的に効果のあるレメディを選ぼうとしてしまう。


「レメディ間で異なる特徴的な症状」

例えそうであっても,ホメオパスはいくつかのレメディから選択しなければならない。それぞれの病の実体にはそれを治癒することが知られているレメディが存在する。これはレメディのプルービングからくるのではなく(プルービングは有効な症状のレベルまで止めてしまうことから),その後行われた臨床的な試験で確かめられている。当初それは,病名に対してではなく症状に対して,クリニックで使用された。そして,そのレメディがその病を治癒させたあるいは実質的に効果をあげたときに,そのレメディはその病に効果のあるレメディとしてリストに記載された。

そういった項目に挙げられているレメディは,患者の症状の違いに基づいて選ばれている。このような症状の違いは,同じ診断名の患者二人においても見られるほど明白である。その二人の糖尿病患者は,病歴,障害の発現,症状,サイン(兆候),合併症, 経過,治療に対する反応性などが全体的に異なっている.実際のところ,のどが非常に渇く,頻尿,血糖値の上昇のようないくつかの糖尿病に共通する一般的な兆候を除き,彼らは共通なものをほとんどもっていない。

個人を決定付ける個々人の違いがレメディを選択する時に役立つのであって,一般的な症状が役に立つのではないことは明らかである。これらの違いは,愁訴が悪化する時間や他のモダリティ,部位の特性,障害が体のどちらの側に出るか,またその傾向,その患者が体験している正確な症状,障害に随伴する症状を含む.ホメオパスはこれらの要因に従って,病状をもとにリストに挙げられたレメディを識別してゆく。


「特性としてのMentalsとGenerals」

しかしながら,彼(ホメオパス)はゆっくりではあるが確実に,精神状態そして温度や食べ物の好み,食欲,発汗や睡眠の傾向などのgeneral(身体全体的)な症状における同じ状態に悩まされている患者の間に最も注目すべき違いがあることを知るだろう。これらはすでに病理学の範疇からは取り除かれているが,患者の最も特徴的なものであることから,レメディを選ぶには非常に有用である.例えば,関節リウマチ患者二人にみられる一般的な症状は,RAテストが陽性であること,血液沈降定数の上昇,変形を伴った関節の痛みなどである。
そのケースに適したレメディを見つけるためには,ホメオパスは痛みの部位や,感じ方,様子,随伴症状などを質問しなければならない。ある患者は,右側により痛みを持ち,午後4時から8時の間に痛みが増し,甘いものや温かい食べ物を欲しがる,温血で,独裁的な人物であることを見つけ出すかもしれない。
また別の患者は,温めることにより改善する焼けるような関節の痛みがあり,寒さに耐えられず,たびたび水をちびちび飲みたがり,惨めなくらい疑り深い心配性な人物であるかもしれない。

このように,その患者の精神やGeneralな症状のみならずその人固有の局部の症状から,LycopodiumやArsenicumであることがすぐに見分けることができる。この2つのレメディは関節リウマチに用いることが知られている。

さて、ここまでは皆が理解できることであろう。ホメオパスは,その病を治癒することが知られていて,またその患者特有な部分(患者と同じ症状像)を持っているレメディを処方している。彼は,局所の特性と共に患者の精神やgeneralの症状をカバーするレメディを選ばなければ,たいていは失敗してしまうことを経験を通じて学んでゆく。彼はレメディを選択する際に,こうした症状像は重要であると考えているが,しかし彼は自分の選んだレメディが”その病に効く”ものとしてリストアップされていることで確信を持つことになる。

ところが、そのレメディに患者が示した病状は載っていないが,精神やgeneralの症状にすばらしくフィットするというケースがある。もし彼がそのような機会に恵まれ,レメディを与えれば,信じられないような結果を目にするであろう。私の患者で40歳くらいの女性は子宮筋腫があることが分かった。彼女は痩せた細い女性で非常に不安げできちきちうるさい人物であった.患者の感情や生まれつきの気質からみたレメディはArsenicum albumであった.しかし,私が調べた限りでは,Arsenicum albumは子宮筋腫のレメディとしては知られていなかった。にもかかわらず,私は彼女にこのレメディを与え,その数ヶ月後の超音波検査により筋腫が消失していることが確認された。


「病ではなく患者を治す」

心を偏見の無い状態にもち続けるなら,そういった体験は例外なくルールになってゆくだろう。私は患者の抱えている問題からかなり遠いと思われるようなレメディさえ使って治療してきた。即座に私は次のようなケースを思い出す。Helledorusというレメディで非常に良くなった関節炎のケース(このレメディはそういう病名に使うとは思われていないのであるが),あるいはCapsicumというレメディを用いた白斑のケース,距骨棘(かかとの部分での突起様症状)の痛みにAconitumを用いたり,Bryoniaを用いた血栓により起こった狭心症のケース。これらのレメディはいずれも通常このような各々の状態に対して用いるとは考えられない。しかし,患者の精神とgeneralの状態がレメディによく合っており,私は偏見のない状態でそれを与えることが出来た。

さて今日私は,精神やgeneralや局所の固有な症状に基づいて自分の選んだレメディが,その病名のリストに載っているかを確認することに煩わされなくなった。体験を通して私は,前述のような原則(精神やgeneralや局所の固有な症状)に基づいてレメディを選べば,患者やその病気に非常に有効に働き,その病気自体自動的に退行してゆく, ということに大きな自信を持つようになった。一方,精神やgeneralをカバーせずに病名だけでレメディを選べば,多くの場合失敗に終るだろう。

これは何を意味しているのだろうか? 各々の患者はその人固有の精神症状,そしてそれに伴う固有のgeneralな症状を持っており,それにマッチしたレメディで治療してゆけば,病気は自動的に退行してゆく,ということを明らかに示している。


「病:中心から末梢へ」

この状態が何よりも優先され,実際それが個々の患者の本当の病というものである。こうして病というのは局部に現れる何かではなく,部分の障害のことではなく,その時のその人全体のあり方の状態,すなわち全体的に,彼がどのようにものを感じているのか,どのように考えるのか,どのように行動するのか,何が好きなのか,何が嫌いなのか,何に耐えられ,何に対して我慢できないのか,ということである。

これが治癒を必要としている状態であり,それは部分的局所のことではない。その状態がひとたび逆転してゆけば,局所は当然ごく自然に正常に機能してゆくであろう。他の方法でそれをやろうとすれば,すなわち,局所を治療しようとすれば,それは一時的なものであり,また害にすらなるだろう。

”病の全体的な概念というものは,何かしら局所的なものから全体的な何かへ変化してゆき,そして診断名から個々人の在り方というものに移り変わってゆく(注釈:病の全体的な概念がそういう風に変化させてゆく)。” この理解をもってして我々の治癒の全体的なアプローチが変化してゆく。もはや我々はある特定の同じ病名のついているすべての人々に対しての特別な治療薬というものを探すようなことはしない。今後我々は,何が各々の患者にとって個別的なものであるのか,ということを理解しようとするようになるだろう。その人の精神とgeneralの状態がどのようなものであるのか,それぞれのケースの中でいかにしてそれを発見してゆくのかを理解してゆくようになるだろう。


「精神的状況(精神状態)」

ハーネマンは次のように記している。
“このことは広がりを持った真実である。患者の性質(気質,傾向)の状態は,しばしば主としてホメオパシーのどのようなレメディを選択すればよいかを決める。” (Aphorism 211)

ホメオパシーのマテリアメディカには,様々なレメディの精神症状が非常にすばらしく描き出されており,その選択を容易にしている。患者の状態に正確に適合するようなものを選び出すためには,マテリアディカの中の様々なレメディの精神とgeneralの状態で比較しなければならない。

“健康な人が非常に強力な薬物をテストしたら,気質や精神の状態に非常に著しい変化が起きる.それぞれの医薬物質は異なった方法で作用する。” (Aphorism 212)

私が患者の精神状態を調べ始めた時,その精神状態というのはただの精神症状の集積にしか見えなかった。例えば,前述した筋腫の女性の精神状態というのは私にとって,きちきちとした好みのうるさい感じや不安感,などを含んだ精神症状の集まりに過ぎなかった。実際,私はこれらの症状の間にいかなるつながりも見出すことができなかった。しかしそれらはいずれも非常に目立つものであったので,私はそのどれもが彼女の精神状態に属していると結論付けた。やがて精神状態というのは何かということが極めて重要であることが私には分かってきた。病の本当の意味するところが私の目を見開かせたのである。

さて私の注意はある特殊なケース,私の大学の食堂でテーブルを片付けている8歳の少年のケース,に注がれた。彼は口がきけなかった。それにも関わらず,彼は活気があり,非常にアクティブでいつも忙しく,ジェスチャーを通じてコミュニケーションをとるような子で,笑みを絶やさず,自分のアクションやダンスや気前のよさで他人を楽しませていた。私の教えている生徒の一人が,その彼に同情し口のきけない状態がホメオパシーでよくならないかと,私の同僚に相談してきた。彼の生い立ちは非常に悲劇的なものだった。それはいくつかの表現豊かなジェスチャーによって伝えられた。彼の母親は彼が3歳のときに亡くなり,父親は大酒のみで,家族のための1頭の乳牛の他は全てを売り払ってしまった。その牛のお陰で彼はなんとか生き延びることができた。彼が5歳になった頃,ちょっとした高さのところから落ちて,声が出なくなってしまった。私が教えている生徒が少年に話しかける1年前,父親は最後の牛を売り払い,少年が眠っている間にボンベイ行きの列車に彼を押し込んでしまった。彼は口がきけないことのために自分を哀れんでくれる人を見つけ,彼らは召使の仕事を与えてくれ,そして最終的に大学の食堂に落ち着いた。

その生い立ちに現れる固有の特徴とは,神がやってきて彼に語りかけ,宇宙に連れて行ってくれて,また元に返してくれるというビジョンをしばしば持つということであった。その少年は非常に宗教心があり日々の祈りを欠かさなかった。彼はその祈りの時に踊り,口をつぐんだまま歌を歌った。

私の同僚は口がきけないのはヒステリック性のものではないかと推測した。彼は少年に少しのプラセボのパウダーを与え,すると彼は一週間のうちにちいさな木から落ち,そして声を取り戻した。

この頃,大学に勤める数人のドクターが彼に興味を持ち,彼に読み書きを教え始めた。


「Situation:状況 に由来する State:状態」

このケースを考えてみた。その少年に次のような症状が見られたことから,私が処方してみたかったレメディはVeratrum albumであった。

−宗教的な愛着
−神が自分とコンタクトを取っているというDelusion
−無言症であるというDelusion
−活発,落ち着きが無い −歌を歌う
−踊る
−微笑む,笑う
−忙しい,勤勉な
−おしゃべり,多弁
−陽気な,活発な

さてここで再び,何のつながりもない症状の集積に見えた.しかし少し深くみてみると,私が探し求めていた洞察を与えてくれた。

その少年は、自分がぜひとも必要としていた同情と関心を勝ち取っていたのである。前述の症状は彼が直面していた深刻な危機を生き延びるのに役立つものであった。口がきけないことが同情をひき,神とコミュニケーションを取っているという感覚が彼に勇気と強さを与え,活発さと彼の陽気な性質が彼を有能な人にし,そして全ての人に彼のことをいとおしいと思わせた。しかしながら,このようなことは,もう既に必要ではなくなっていた。なぜなら,今の彼の状況というのは,それ程ひどいものではなかったからである。彼は自分のことを気遣ってくれる人のもとで,より安全な状態を手にしていた。彼らは少年のためにもっと役に立ちたいと思い,彼の口がきけない状態というのはもはや障害となっていた。よって,彼の口がきけない状況というのはプラセボで消えていったのである。(補足:口がきけないという状況というのが必要なくなったのでプラセボで治ったのである。)

彼がすべて意図的にやった,と言っているのではない。すべてのことはおそらく意識下(潜在意識)のことである。彼の全体的な状態,彼の状況,その全ての症状の中でぴったりした生存メカニズムが実は残っていた。(補足:生存メカニズムが適切なものであったことを結論づける) 彼の状態にとっての必要性が減じた時,それは自動的に消えていった。

このケースが私の病に対する概念に革命を起こした。”病の状態というのはある特定の状況で生き残るために生命体が採用した在り方(姿勢)である”ということが分かった。その状況が存在する限り,その状況が適切なものでその状況に見合ったものである限り,いかなる治療法も役に立たない。(補足:その在り方が必要であるから)

私はそのケースを調べはじめたときに,いかなるケースの精神症状もあるパターンにフィットしたものであることが分かった。それぞれのパターンというのは,特定の状況にフィットする(見合う)在り方のことである。

例えば,次のような目立った精神症状を持つ3歳の少年のケースを見てみよう。

−音楽を好む
−踊ることを好む
−色彩を好む
−絵を描くことを好む
−非常に活動的
−非常に勤勉
−狡猾
−人を欺く,騙す
−いたずら好き

身体の面でも同じような特徴が見られた。
−落ち着きが無い,特に手足
−舞踏病様の動作
−エネルギーの増加

ホメオパスはそういう症状を持つ患者に対してTarantulaというレメディを処方してきた。私は自分自身に問いかけてみた。これらの症状のつながりとはどのようなものであるか? 私はハッとした。これらのほとんどは人を惹きつけるような行動と関係がある。人の注意を引付けることを必要とするような人は,音楽を愛好したり,踊ることや,色を愛好したりという方向へ向かう。では,人が人の関心を引付ける必要があるのはどういう時か? 当然それは,人の関心を得ていない時である。つまりそれは愛情のやり取りがないような状況で起きている。

そういった状況が他人の愛情や関心を勝ち取るために要求する特性というのは,いたずら好き,人を欺く,活発である,またはエネルギーが非常に増加しているというものである。こうして私は分かったのである。つまり彼の精神の全体的な状態というのは,愛情に報われないという状況に適応した彼の在り方(姿勢)であるということを。

その状況が存在する以上,どんな治療も必要ではなく,実際役に立たない。しかしこの少年の場合,この姿勢を必要とするような状況が,もはやなくなっていたのである。


「在り方としての病」

よって,その在り方というのは,その状況に釣り合った適切なものであるだろう。例えば,ある人がライオンに追いかけられている時に,素早く走ったり,非常に怖がったりといった姿勢は,彼の生き残りのための方策がそれにかかっているがゆえに,適切なものである。しかし,その人が,ライオンに追われていないのに同じ状態になるなら,あるいは,小さな犬が近づいただけで同じ姿勢を取るならば,また,自分が考えることのできないようなパニック状態に陥るなら(すなわち,その状況で必要とされるには過剰な反応である), このような状態というのは治療して取り除くことができる。

さてこれまでのところで,病というのは精神と身体の状態であり,その状態というのは特別な状況に相応しい姿勢であり,そして以下のような状況の時に取り除く必要がある。

−そのような状態がすでに存在していない(ライオンがいない)
−その状況は今や異なったものである(ライオンでなく犬である)
−その状況にはその反応は不釣合いである(過剰なパニック)

こうして病というのはその人全体の疾患であり,その時にそこに存在しない特定の状況に見合った生き残りのメカニズムとして採用された在り方とみなされる。この在り方というのは,現在自分が直面している状態に対して誤った見方をしているために,不適切なやり方で反応させられてしまう。その状況に対する不適切な不釣合いな反応というのは生命体にとっては常にストレスの原因となる。そのストレスは,その人が持っていたまたは持ち込んだ病を悪化させる。その病というのは固有なもので,その人が病を活性化する傾向をもっていたものである。この誤った反応を治癒することによって,生命体全体のストレスを減じさせ,そしてそれ故に病に対して悪化させる影響を減少させ,こうして病は自動的に退行してゆく。

さてこれらのことから当然生じてくる疑問がある。なぜ我々は不適切で不釣合いなやり方に反応してしまうのか? それに答えるために,疑問を二つに分けて取り扱わなければならないだろう。

−不適切な在り方
−不釣合いな反応
この二つの側面を次からの2章で取り扱ってゆく。

(第3章終わり)



第4章 不適切な在り方(姿勢)

我々は病というのは精神や身体の状態であると理解している。ある特定の精神状態が,特定の身体の状態と関連しているということである。病というのは外側にある何かではない。外部からきた何かではない。知覚した状況において生き延びるために生命体によって採用された在り方,つまりそれが病である。それは取り除かれるべきものではなく,変化させられるべきものである。その在り方というのは,特定な状況に見合ったものであり,もとあった形に戻っていくべきものである。

その状況が存在する限り,そして在り方が状況に見合ったものである限り,それは取り除くことができない。または取り除かれるべきものではない。例えば,あなたが重い荷物を持っていて,それを運ばなければならない時,あなたの背中が壊れないようにするには(注釈:文中のyou backはyour backの誤植と判断した),荷物と反対の方向に体を曲げなければならない。それはその状況をうまく切り抜けるために,あなたの体が取る姿勢である。その姿勢というのは健康的なものであり,あなたにとって有益であり,この状況においてはあなたにとって必要なものである。そしてその荷物が重い限りは,その姿勢は維持されなければならない。

それ故に我々はその姿勢が適応しているかどうかを見てゆく。その適応というのは存在している状況に見合ったものである限り,またその状況に適切なものである限り,そしてその状況または起因因子が残っている限り,この適応性は補正されることはできず,また,そうされるべきでもない。

臨床においてほとんどの場合,この適応,存在する状況に対する反応というのは不適切なものである。(その患者さんの中で不適切な在り方が起きている.)さて,あるケチな女性ー誰も信用せず,最後の最後までお金を数えるーのことを考えてみる。彼女はお金を金庫に保管し,しかしそれでも安全だと感じられない。そして夜になると泥棒が家の周りをうろついているような感覚に襲われる。落ち着きが無くなり,不安げになり,手足が冷たく神経質で水をちびちび飲む,この痩せた女性は,常に不安な状態の中で生活している。胸にちょっとした痛みがあっただけで,死が戸口の近くまで来ていると感じてしまい,狼狽して何人かのドクターのところへ駆けつける。しかしそれでもまだ安全だとは感じることができない。とても美しい場所に出掛けたとしても,彼女は泥棒から守るかのようにお金を数え続け,自分がいる周りの美しい景色には全く気がつけない。彼女は愛情を与えられても,疑うような反応しかできない。彼女は人に対してもましてや体験に対しても,自然な反応をするだけの余地が無い。


「不適切な在り方の起源」

こういった不適切な状況というのはどういうところから起こってくるのだろうか? 次のように考えるのが理に適っているように思われる。すなわち,過去にこの女性が泥棒に囲まれたような状況におかれ,そのためこの姿勢は彼女の生き残りのために必要なものであった。過去のあるときに,この女性が何人かの泥棒に囲まれるような状況におちいってしまい,そしてこの状況に対する姿勢が彼女にとっては生き残るための戦略となってしまったのである。彼女はうそつきな人に酷くだまされたことがあり,だから彼女は誰も信用することができない。このような状況は彼女に印を残してしまった故に,過去からの印象を強く受けそのために現在においても不適切に応答してしまう。
人は長い間,あるなにものかに慣れ親しんでしまうと,それは影響,(印象,記憶)を作り出してしまう。これは,ちょっとした刺激でも不適当なまたは不釣合いな反応を人に起こさせてしまう。さてここで,暴力や殺人が多発している非常に危険な地域に住んでいた男性の例をとりあげてみよう。彼は非常におびえたままで,彼の中に恐怖の状態がある。彼はなにか生死に関わるような理由で,夕方家の外に出なければならないとしたら,彼は非常におびえてぶるぶると震える。彼は前や後ろを常に見回して,まるで誰かが彼を攻撃する準備が整っているかのように,誰かが自分に何かするのではないかと感じている。誰かが彼にほんの少し触れたとしても,彼は非常にびくっとする。

これが非常に強い恐怖のある状況に必要とされる状態である。しかし彼は,その状況に長く住んでいたときに,すべての状況が彼の中にある影響を作り出してしまった。そして、私が roots と読んでいるものを作り出したのである。そのため彼はたとえ安全な場所にいたとしても,彼の内側では依然として恐怖の根っこが存在している。そして彼がちょっとしたことを聞きつけただけでも,極端なパニックの状態に陥ってしまう。彼はたくさんの恐怖を通り抜けてきているので,ちょっとした同じような状況が彼の中に釣り合いを外したような反応を引き起こしている。

(第4章:前半)

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<NO.3 PARTT-4後半〜5:040908>

(第3回 8Aug2004
開始ページ:p22 4 UNSTABLE POSTURE The origin of unsuitable postures
終了ページ:p31 5OUT OF PROPORTION REACTION Conclusion)


「rootは伝えられる」

この見地から自分自身のケースを見始めた時に、過去に患者の現在の状態の起源(origin;由来)となっているものを追跡できるようないくつかのケースがあることが分かった。しかし、ほとんどのケースではその患者の全人生を通じても、そのような状態を見つけることができなかった(注釈:すなわち、いくつかのケースでは見つけることができた)。

さらに、子供の頃、新生児の頃にさえ、そのような状況が存在することが見つけられなかった(文脈からみて、"could see"は"could not see"の誤植ではないかと思われる)。そこで私はこれらの状況がどこから生じたのか見つけ出す必要があった。子供が非常にしばしば、母親が妊娠中に持っていたものと同一の状態を持つことに私が気づき始めたのがこの時であった。他の子供についても、極めて細かな部分に至るまで、子供と一方の親の状態との間に、非常に目立つ(striking)類似がみられることに気づいた。ここであるケースを見てみよう。

その患者は10歳の少年で、非常に重症で慢性の皮膚疾患を持ち、その治療のために私の同僚の紹介でやってきた。彼は痛みと痒みの激しい炎症性の腫れ物が四肢にできていた。過去数ヶ月、彼は座ることも立つこともできなかった。腫れ物は膿でいっぱいで、泣きながら私の診察室に運ばれてきた。

その腫れ物は彼が生後4カ月の頃からでき始めた。それ以来、何人かの医師を訪れ、またいくつかの治療を、ホメオパシーも、受けてきたが、いずれも効を奏することは無かった。

その痒みを説明するために、彼の母親が言ったことには、彼が皮膚を引き剥がしたくなるほど非常にひどいものであった。彼はこぶしを握り締め、痒みのあまりのつらさからまるで狂った人のように叫んだ。彼は言った、“僕を殺してくれ、もうそれをひきうけられない。もう生きていたくない。”痒みがあまりにもひどい時はいつも言っていた、“ナイフをくれ。腕に突き刺したいんだ。”

子供にしてはこの少年は、ある特定の女神に依存していた(帰依していた)。彼は女神を称える自作の歌を歌った。痒みがあると少年は女神に対して怒り出し、こう言った“僕はあなたのために非常にたくさんのことをしてきたのに、これがあなたが僕にしてくれたことなんだ!”そう言うと彼は自分の持っていた女神の絵を破り捨てた。

彼の心と皮膚はとても敏感だった。彼はほんのひとしずくの水にも我慢できず、入浴することが嫌いで、喉の渇きはなかった。暴力を伴った痒みは持続的なものではなく、発作的であった。それは残酷な行動であった。彼は言った。“僕は気が狂いそうだ。”

身体的にみると、彼は野菜を嫌い、チョコレートを好み(craving)、太陽の熱を嫌った。

このケースにおいて、我々は次のような精神とgeneralの症状を見ることができる
−暴力
−口汚く罵る、虐待的な
−殴る、打つ
−残虐性
−引き剥がしたいという衝動
−切りたい、切断したいという欲求
−自分の身肉を突き刺したいという衝動
−神聖な音楽に敏感
−チョコレートを好む
−野菜を嫌う
−水を嫌う

この状況に関連した主な感覚:
−(女神に)見捨てられた(Rubric:“Delusion、 deserted”)
−(女神に)苦しめられる感覚(Rubric:“Delusion、 tormented”)
−不当な扱いを受けているという感覚(Rubric:“Delusion、wrong fancies、 he has suffered”)

このような感覚から起こるのは暴力的な反応であった。彼には皮疹があり、そして彼が尽くし依存していた人(女神)に苦しめられ、見捨てられたかのような反応を示した。

このような状況に用いられるレメディはLyssinum(Hydrophobinum)である。それは、その存在を説明するような状況が少年の過去にはないような固有な状態であり、実際、生まれて4カ月目から少年にその問題が起こってきた。
そして、私は母親の妊娠中の状況(history)を調べ、次のようなストーリーを聞くことができた。

母親は妊娠中にひどい歯の痛みがあった。これは彼女にとって2度目の妊娠だった。彼女は初めの子供を死産していた。2度目の妊娠の当初から母親は、何か恐ろしいことが起こるのではないかと感じていた。彼女はいつも祈ろうと(would)していた。赤ん坊は(出産予定日より)10日過ぎていた。このことが彼女をパニック状態に陥らせ、ひどく緊張させた。彼女は拳を握り締めて、同じ女神の絵の前に立ち、叫んだ。“なぜ私にこんなことをなさるのですか?”彼女は犬を怖がり、チョコレートが大好きであった(desire)。母親の妊娠中に見られた顕著な症状は次のようなものだった:

−妊娠中の歯痛
−妊娠中の恐怖
−不運、災害、弊害(evil)に対する恐れ
−祈り
−災難、不運(misfortune)に対する恐れ
−何かが起こるのではないかという恐れ
−苦しめられている感覚
−チョコレートを好むこと(desire)

この感覚は“彼女が信頼していた人に悩まされる、不当な感覚(sense)、見捨てられた感覚(feeling)”と同じものである。彼女の状況に用いられるレメディはLyssinumである。

妊娠中の母親に細部に至るまで同じ状況を見たことは、私にとって注目に値する体験であった。少年はLyssinumで非常によくなった。付け加えると、彼を連れてきた同僚も、これまで彼を診察したホメオパスも、このレメディを処方しなかった、ということの考え得る理由のひとつは、Lyssinumは皮膚疾患に用いることは全く知られていなかった、ということである。マテリアメディカでは、腫れ物や他の皮膚病(complaint)については全く述べられていない。このケースは、病とは何であるのか、すなわち単に局所の問題ではなく、それは個人の在り方の問題である、ということを理解することを必要とするもうひとつの明らかな例である。

私はいくつかのケースにおいてこの現象に気づき始めた。私の最初の見解のひとつは次のようなものであった:もし母親が妊娠中に非常に激しい状態を持っていたなら、子供もまたほぼ同じ状態を持ってしまう。

ひとたび、病がある世代から他の世代に伝わる、というこの考え方が私の中に浮かぶと、私は妊娠中の状態以外の、これらの病の状態や傾向、rootが伝えられる他の手段について調べ始めた。妊娠中の両親の状態が強烈なものであれば、それはrootとして子供に伝えられる、ということに私は気づき始めた。

「rootsの形成」

rootは次のような経路で形成される。
−その人に長い間強烈な状態が存在することによって
−妊娠中の母親の強烈な状態はrootsとして子供に伝えられる
−受胎時期における、父親または母親の顕著な(支配的な)病の状態もまた子供のrootsになる
−受胎時期における、父親または母親のrootsもまた子供のrootsとなる

私が示したこの4つの源(sources)の順序はまた、rootsの刺激されやすい(excitable)順序でもあり、一番目に示した経路は、最も容易に活発な病の状態に活性化される、ということを意味する。

あるジョークがある。

泥棒とスリが結婚し、やせた赤ちゃんを授かった。しかし、生まれた後も赤ん坊は拳を握り締めたまま開こうとしなかった。家につれて帰った後、拳を開いた。すると助産婦の指輪が出てきた!

同じ親から生まれた2人の子供が、例え同じrootsを持っていたとしても、異なった病に罹る(manifestをこう訳した)のはなぜであろうか?

我々が究極的に被る病の状態は、次のような要因に依存している。
−どのrootsが刺激されやすいか。
−刺激する要因は何であるのか。

刺激要因は、何が病を起こしているか、ということを決定付ける際に、非常に重要な役割を果たしている。全く等しい刺激の受けやすさを持つ2つのrootsがあったとして、ある特定の刺激要因は、一方をより悪化させるという傾向がある。

それぞれの子供について、その妊娠中の両親の状態が異なっていることが、子供のrootsに違いを生み出している。これは、なぜ同じ親を持つ2人の子供が異なるrootsを持つのか、または異なるrootsの強さを持つのか、ということを説明している。この点において、rootsの強さと刺激の受けやすさを区別することが必要になってくる。あるrootの強さ(深さ)は、前の世代も含めて、いかに長期間その状態が持続していたか、ということに左右される。病の状態が長い間続いていたなら(いくつかの世代を通じて)、強い(深い)rootsが形成される。rootの刺激の受けやすさ(外的要因によって活動性の病の状態を起こすことがどれくらい簡単に刺激されるかという意味で)は、その病が活動性だったのはどれくらい最近のことであったか、ということに左右される。最近活動性だった病は、刺激を受けやすく、また容易に活発になるだろう。例えば、妊娠中の母親の状態は、子供に見られるもっとも刺激の受けやすいrootを形成させる、ということが私には分かってきた。例えば、妊娠前はCalcareaだった女性が、妊娠中に強烈に恐れを感じ、非常に強いStramoniumの状態になったとする;彼女は恐らく全くStramoniumのrootsはもっていないだろう。その子供の最も刺激を受けやすいrootはCalcareaではなくStramoniumであろう。この特徴は昔の人々に知られていた、彼らは、子供がそのような特徴を持つようになるので、妊娠中は母親を幸せな、穏やかな状態におくことを強く言っていた。このrootsという概念はまた、なぜ特定のレメディがしばしば特定の国に見られるのか、ということの理由を我々に示してくれる。例えば、英国ではStramonium(恐れと祈り)は非常にしばしば見られる(注釈:処方される)。考えられるひとつの理由は世界大戦である。それは国中にパニックと恐怖の状況を作り出し、この状況のrootはその時に生まれた人々の世代に伝えられた。

非常にしばしば見られることであるが、双子に異なったレメディが処方される。彼らが同じrootsを引き継いだとしても、彼らの成長の仕方、彼らがどのような処遇にあったかによって、異なった root を刺激し、彼らの中に異なった states を作り出す。

育て方(upbringing)は roots を作り出すわけではないが、その人の成長の仕方が、特定の root を刺激する。例えば、ある兄弟の一方がひいきされたとすると、2人とも“嫉妬深いというroot”を持つが、ひどい扱いを受けたほうの root が刺激を受けやすくなっている。


「沈黙の状態と支配的状態」

私は、何人かの患者にあるひとつの状態が、非常に顕著に見られることに気がついた。治療することにより、この状態の活動性レベルが低下し、また新たなものが顕在化してくる。この第2の状態を治療することによって、第3の状態が明確に現れてくる。これを治療すると、第1の状態が再び戻ってくる;この戻ってきた第1の状態は、激しさが弱まり、患者は健康状態が良くなっており、その症状は治癒の方向に向かっている。私がこれをはっきりと観察した初めのケースは、腰痛、高血圧など多数の症状を持ち、私を訪ねて来た女性であった。彼女のケースを取っていくと、Kalium bichromicumというレメディの状態であることが分かった。彼女にそのレメディを与えたところ、彼女は良くなったが、新しい症状が出てきた。今やKalium carbonicumと呼ばれる他のレメディを必要とし、それは彼女の状態をさらに緩和させたが、さらに第3のレメディとしてSulphurの状態が現れてきた。Sulphurにより非常に良い結果を見たが、すぐに再びKalium bichromicumの症状が現れてきた。このように彼女はサイクルを描き、それぞれのサイクルを経るたびに、彼女の健康状態は段階的に好転していった。

これはむしろ、螺旋階段を下ってゆくようなものである。それぞれのサイクルにおいて、同じポイントにやってきても、それは前回より一段階低いのであった。ホメオパシーの文献において、同じようなレメディのサイクルが知られている。最も有名なのは、Sulphur−Caracalea carbonica−Lycopodiumのサイクルである。また別のサイクルとしては、Causticun−Colocynth−Staphysagriaである。必ずしも段階が3つである必要はなく2つでも3つでもそれ以上でもよい。これは、ひとりの患者の中にいくつかの段階が存在するという考え方、すなわち、ある時期にはあるレメディが合う状態が優勢になっている、という考え方である。

これは以下のように表記することができる。

(Fig. A,Fig. B,Fig. C,Fig. D)※原書参照のこと

Fig. Aは、states1が目立っている時、state2 および state3 は沈黙の状態(silent state)にあり、states1は支配的な状態(dominating state)であることを示している。Fig. Bでは state2 が優勢な状態になっている。

これは国の議会に例えることができる。ある多数派の政党が法律を作り、政策を国民に押し付ける。他に政党は存在するが力はない。多数派の政党の勢力が、第2の政党の勢力より弱まると、第2の政党が政権をとる。第2の政党の勢力が弱まると第3の政党が勢力をもつようになる。最終的には再び第1の政党が権力を勝ち取り、他の政党の勢力はより弱まってゆく。

このサイクルの繰返しにより、結果的には政党の勢力は弱まってゆき、重要な変化を起こさせる能力もまた弱まってゆく。

「沈黙の状態と root との違い」

この違いがどのようなものであるかは以下のように説明される。もしあなたの中心的な精神状態として、健康に対する不安感を持っていたとすると、それがその時点での支配的な状態である。突然あなたは物音を耳にし、泥棒が自分の家に入ってきたのではないかと感じてしまう。さてこうなると健康に対する不安感はどこかへいってしまい、新しい状態(泥棒に対する不安感)が支配的になる。そこで、健康に対する不安感はそこに存在してはいるが、目に見えなくなっているだけである。さてあなたは泥棒を捕まえるよう警察に電話をした時、突然煙に気がつき、家のどこかで火事が起きているのではないかと思ってしまう。そうすると再び泥棒に対する恐怖はどこかへ行ってしまい、火事に対する恐怖が支配的になる。

あなたが消防署に電話をし、火事が消し止められた時、泥棒に対する恐怖が再び支配的になる。泥棒に対する恐怖、健康に対する恐怖はいつもそこにあるのだが、沈黙しているだけである。これがsilent statesと呼ばれる所以である。

StatesはRootsではない。なぜなら、それがRootsであってStatesでないとすれば、“Fear of fire”が消え去ったときそこには何も残ってはいないはずだからである;ただしExciting factorがないとすればである。しかしExciting factorがないのに何らかのStateが残されているとすれば、それはRootsではありえないのである(つまりRootsはなんらかのExciting causeなしには表面化しないので)。

他の例を見てみる。自分の中に医者や、弁護士や、農夫になる才能を持つ人がいたとする。彼はこの3つのroot才能を持っている。彼はこの3つのrootを持っているということになる。しかしある時、この地域で医者が最も必要とされていれば、それは彼が医者になるというexciting factorになる。そこで彼は医者になり、ある期間医業を営む。やがて、その国で戦争が起きたとすると、全ての人が軍隊に入る。そしてその医者は兵士になる。そこで“兵士”は彼の優勢な状態であり、“医者”はsilent stateになる。

このケースが我々に見せてくれたものは、“医者”はsilent stateである、ということである。戦争が終れば彼は再び医者になることから、その状態はsilentではあるが、常に彼の中に存在していた。

さらに、rootとsilent stateの違いは、silent stateのケースでは、優勢な状態が弱まった時に、いかなるexciting factorがなくとも、再び病の状態が見られるようになるということである。rootは病の状態を引き起こすのに、特定のexciting factorを必要とする。

以下のような図で、rootと病を示したならば(Fig. E)、
以下のようなチャートでそれぞれ示すことができる。

「ある人の病の状態とrootに関するモデル」

病とrootを示したこのチャートを理解することができる(Fig. F)。

−rootsのある病:A,C
−rootsのない病:B
−病のないroots:D,E


第5章 釣り合いを外れた反応

前の2つの章において、病について検証し、それはある特定の状況に適応するために生命体が採用した姿勢である、ということを理解した。もしこの姿勢が、不安定である、または、直面している状況に対して釣り合いを外れていれば、それは治療する必要がある。我々は、不安定な姿勢が培われてゆく理由について詳細に検証し、それが過去の状態の記憶、我々がrootsと呼んでいる記憶から起こっているということが分かった。

この章では、釣り合いを外れた反応について、それが起こった理由を理解してゆく。釣り合いを外れた反応は、日に幾度でも遭遇するが;人によれば、人がそのストレスに釣り合いのとれた反応をするのはむしろ例外である、とさえ言うかもしれない。いくつかのストレスを取り上げてみよう、例えば、家の中で火事が起こった、または部屋から煙が出てきたとする。我々のうち何人が、これに対して釣り合いの取れた反応をするだろうか?我々のパニック、混乱、不安感は必要とされるよりはるかに過剰であろう。そして通常これは有益というよりむしろ、有害なものであろう。このような過剰な反応は、生命体に必要以上のストレスを生み出し、この過剰なストレスは後に見てゆくいくつかのケースにはっきりとした違いを作り出す。

先程も取り上げたライオンに追いかけられている男性の例をとりあげる。ライオンがその人を追いかけている限りにおいては、彼は考えることができないようなパニック状態になり、それがさらにパニックを作り出し、この悪循環は彼の状態を釣り合いを外れたところにまで吹き飛ばすような地点へ彼の状態を進めてしまう。このことは彼の中に非常に大きなストレスを作り出し、ライオンそのことよりもそのストレスによって死んでしまうかもしれない!

この釣り合いを外れた状態は、意志の強い力によって抑える(引き下げる)ことができる。煙のためにパニック状態に陥っている人は、もし彼が自発的に彼自身をとどまらせ、考えることを始めるならば彼の不釣合いな反応を抑えることができる。もし彼が自分をとどめて、自分にこう言う“私は過剰な反応をやめなければならない。”ならば、彼のストレスはある程度緩和される。

こうした現象については次のように言うことも出来る。ある(強い)exciting cause (ストレス要因)の元では、ある状態は釣り合いを外れたところまで、吹き飛ばされがちである。しかしながら、そうした反応は時には、強い意志の力によって方向転換させることも可能である。

この現象の作用は、rootのある病とrootのない病とでは若干異なっている。これら2つを個別に検討してゆく。

「rootのない病」

いくつかの病はrootを持たない。それらは非常に強く激しいexciting factorによって引き起こされる。例えば重大な感染症というのは強烈な病的因子(病原体)によって生じてくる、それは個人の状態がどのようなものであろうとも、その人の防御力を打ち負かし、病自体の状態を生じさせてしまう。そういった感染症の場合、通常、病にかかった人のほとんどは同じ状態である。

ハーネマンが生きていた時代にこのような感染症のひとつコレラが流行した。ハーネマンはこの病には特定の薬物(レメディ)が有効であると理解することができた。これらの薬物は、コレラにかかった非常に多くの患者を治療した。

感染症とよく似た現象としていくつかの急性疾患、火傷、脱水、出血、大きなケガ、重篤な感情的ショックなどがある。ここでもまた同様に、ストレスが重大であることによってそれを受けた人の反応は一様になってしまう。(個人それぞれの反応ではなく、病それ自体の強さがあまりに強いので、全ての人に対して同じような反応を起こしてしまう)。ほとんどの人はこれらの要因から同じような状態を起こし、同じようなレメディに反応する。このようなレメディは非常にしばしば、生死の境において回復に結びつかせるものとなる。

さてここで疑問が生じてくる、どのようにしてホメオパシーのレメディは、このような状態の中に違い(死んでしまうような人を生き返らせるような違い)を作り出すのか。すでに言及したことだが、病の状態がストレスの要因に対して釣り合いの取れたものであるならば、それを治療することはできない(注釈:治療する必要がない)、このことは明らかである。もしレメディがその反応を引き下げるのに役立つのであれば、すなわち、それは反応がストレス要因より過度であるということを意味するに違いなく、釣り合いの取れたレベルにまで反応を下げることにより、ホメオパシーのレメディは大きな違いを作り出し、そして、過剰な反応により引き起こされてきたであろう死を防ぐ。

もし、ストレス要因が非常に強く、人体がそれに対処できなければ、死が確実に訪れる。しかし、多くのケースでは、ストレス要因はそれ程強烈なものではないけれども、釣り合いを外れた反応は人体が耐えられないような過大な緊張状態を引き起こす。このような過剰な反応は、先に述べたような現象が原因である、すなわち、ストレス要因の影響下で、その状態がそれ自身を(さらに)釣り合いの外れたところへ持って行ってしまう傾向がある。

「rootのある病」

ここまで、過剰反応という現象がRootのない病の場合でどのように動いているのかを見てきた。このようなRootのない病の場合はシンプルかつ容易に理解できる。しかし、もっと複雑な様式ではあるけれど、同じ現象がRootsのある病の場合にもあてはまる。両者の違いというのは、Rootのある場合は健康な人(Rootの無い人)に無 害な要因すらもExciting factorになるということである。Rootが刺激を受けて励起されやすいものであればあるほど、より些細な要因でも病の状態が惹起されるであろう。したがって、このような(つまりRootが励起されやすい状態の)人の過剰反応現象を見てわかるのは、そのような人たちが常にExciting factor(そのような人に とってはExcitngなのである)の影響にさらされていて、それゆえそのような人たちのStatesは(Rootのために)その時の状況に不適当なものであると同時に釣り合いをはずれっぱなしだということである。こうして、ほとんどの慢性のケースでは、不適当な反応、これは他の状況であれば適当な反応であるのだが、それがみられるばかりではなく、(その状況に対する)反応が不釣り合いにもなっていることだろう。

ここでもう一度、犬に追いかけられているのにライオンに追いかけられているかのように反応する人の例を取り上げてみよう。この人はライオンが自分を追いかけているかのように反応するばかりか、その反応までもが実際にライオンに追いかけられていたとしてもそこまではしないだろうというくらい釣り合いがとれないものになっていることだろう。


「結論」

さてここまでの3つの章を通じて、我々は、「病は特定の状況に対して生き残るために生命体が採用した姿勢(あり方)である」ということを見てきた。通常この特定の状況は既に存在しておらず、またその反応は過剰であるということがみられる。これは生命体全体にとって緊張状態となり得、その人の病的な傾向を悪化させてしまう。次の章では我々の生命における病の持つ意味について、またそれがどのように我々の思考、感情、行動に影響を与えるかについて検討する。そしてまた、ホメオパシーの概念は他の領域の概念と非常に類似しているということに気がつくであろう。

(第5章 終わり)

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<NO.4〜5 PARTT-6途中まで:041018>


第6章 健康と病:心理学的及び哲学的考察


病というのは二つの部分からなる。生命体全体的乱れと局所的な問題である。全体的乱れ(肉体的や全体的また精神的な変化を含むものであるが)は、局所的な問題の前に現れるように思われる。この全体的な乱れというのは、おそらくHans Selye氏(ストレス学の権威)が、汎適応症候群:General Adaptation Syndrome(長期ストレスに対する生体反応)と表現しているものの事であろう。この全体的な乱れや変化の全ては、ある特定の状況において生き残る為の適応の姿勢なのだと理解出来る。
*その状況が実際に存在していたりあるいは(そういった存在の在り方をとるほどに)十分に(つまり適度に)強烈なものであれば、そのような適応をすることがその人の生存につながっているのであるし、(それは自然の道理にかなったものであるから)その適応状態に対して(適応をねじまげるような)治療をほどこせるわけがないことは明らかである。
翻って、そういった状況が実際には存在していないのに(それが起こっているかのような)適応反応をとったり、あるいはあまりにもその状況が強烈なものである場合にとられた適応(反応)、これらは不適切な適応状態となってしまうであろう。ゆえにそれは治療を施す必要がある。*(補足>*〜*間この部分はとても英文が理解しにくいが、この章を最後まで読むと理解できる。つまり、前者はガンジーであり、後者はハライラルである)


姿勢としての病

要するに病というのは、ひとつの姿勢であり、存在のあり方なのであって、ある特別な状況の中では似つかわしく適切なものであるが、その状況は現在は存在していないのである。病というのは、生き残りの為の姿勢とか存在のありに由来しているものである。この状態は、我々が「root」と呼んでいるある残像を残す。この「root」は後から活性化してくるのであるが・・。

病というものは「OK」と感じる為にさまざまな状態にセットアップ(体制を整える)をする。ライオンが我々を追いかけているところを想像してみよう。その時、我々は走ることなしには「OK」と感じる事は出来ないであろう。同様に、もしあなたの病気が、人から愛される為あるいは生き残る為に何かを成し遂げる必要があるような状況の中で起きてきたものであったとしたら、それが成し遂げられる事なしには、あなたは「OK」を感じる事が出来ないのであろう。(補足→自分が愛される為生き残る為には自分が何かやる必要があるんだという状況に病はさせるということ)
こうした状態が、あなたの現在に相応しいあり方やその状況に見合った反応をするという事に対して制限を加えてしまうのである。欲張りな人間は絶えず財布を調べたがる。たとえ彼がタージマハールTaj Mahalを訪れた時でさえ、その美しさを賞賛する事よりも、やはり財布を調べるであろう。

このように、病というものは「OK」と感じる為に沢山の状態をセットアップするのである。病とはこうした特質を持っているのである。”私は「OK」だ。ただ、もし・・・の時に限り「OK」だ。”というように・・。
このようなOKを感じる為の状態(やむを得ない行動)というのは、しばしば我々の感覚や恐怖から起こる。とりわけ、目の前のある状況に対してこれだ!と見なしてしまう固定観念から起こって来るのである。(強迫観念)
その欲張りな人間の恐怖は、自分が回りの者に騙されるのではないかという凝り固まった考えから起こって来る。強迫観念または凝り固まった感覚というのは、我々が自分自身はこうあるべきとイメージするある特別な状況において、必要とされるものである。
我々は、ほとんどの状況が我々のbasic delusionから由来するものであると見て来た。そして、これこそが我々の病なのだということも分かって来た。病とは過去の状況の遺物であり、我々に残されたひとつの残像のようなものである。(root)


「OK」と感じる為の状態

このような状態(やむを得ない行動)や強迫観念(凝り固まった感覚)の為に、我々がその状況に反応する能力は制限されてゆく。この制限が我々の病の程度なのだ。
このような制限があると、我々はもはや自分の目の前のことに対してオープンなままではいられなくなってしまう。我々はほとんどの状況で「not-OK」であり、ただ満足をしてOKを感じる事の出来た状態の時にだけ、「OK」なのである。達成者(補足:何かをしようとしている人=病気の人)は、自分の業績で何かやっていない事はないだろうかと、あらゆる状況の中で不安になる。その状況が彼に何かを強いるという事以上に、彼が状況に何かを求めているのだと言える。達成者というのは、達成する事そのものよりもむしろ達成の為の状況を求める。それゆえに彼は、他の状況を選ぶ事が出来ない。
(補足→達成者:何かをしようとしている人は、達成する事、何かを作る事が大事なのではなくって、出来た!という感覚が大事なのです。例えば、既に建っている家そのものよりもそれを建てた!という感覚が欲しい。)
病の人というのは、自分の車が、第1速ギアしか働かないと感じているようなものである。だから彼は丘の登山経路を選ばなくてはならない。何故ならこれしか自分では「OK」と感じられないからなのである。他の全ての道では、彼は他に後れを取ると感じる。「Not-OK」と感じる事や「OK」と感じる状態が、最も顕著な病の結果なのだ。

これに反して”健康とは無条件の「OK」である。”つまりいかなる状態においても「OK」を感じる事である。健康というのは、人がその時に、そのままでいる事を許してくれる。そして、その直面する状況に、適切な釣り合いの取れた反応をするのだ。もしその状況が人に達成を指示するのならば、達成できるであろう。そしてもし、受身である事を要求するのならば、人は受身でいるだろう。
健康な人というのは、自分自身「OK」と感じるために、わざわざ達成をする事や受身であるという事を必要とはしない。健康な人は、まるで車のギア全てがちゃんと動いているという事を知っている者のようだ。山岳路にこだわる事もなく自由に走行することが出来る。”健康とは、自由で、自発的で、今現在ありのままの状態で存在している、という事を意味する。”内なるスピリットがその状況の要求する事に応じる事が出来るのである。病の人というのは、自分が「OK」と感じられる状況が満たされた限定的状況下にのみ、その限定されたことに応じる事が出来る。そして健康とは、人が自由に存在出来、そして制限なく表現出来る。そのような余地があるという事を意味している。
他人に対して、このやり方でないと駄目だとかあのやり方だと駄目だとか、そういうことにとらわれることのないようなやり方で、他とやってゆける。

このように、健康はある有名な言葉で表現される事が出来る。Thomas Harrisの言葉。

「I am OK, you are OK」

哲学者Sosan(三代目の禅師)は言う。
『偉大なる道ー偏見無き者にとり、困難は見当たらず。愛憎の双方がなき時、すべてはつまびらかとなり、覆い隠されるものはない。しかれども、極些細な分け隔てがある時、天地は無限に裂かれよう。汝、もし真実を目にしたいと思うならば、己の意見や反論を捨て去るが良い。好悪についてもがき苦しむこと。これすなわち心の病なり。』

それゆえに、健康であれば人は何も優先しないし何も強制しない。そして、あるがままを受け入れるのである。


精神の手段としての健康な人

ハーネマンはオルガノンOrganonの第9章でこう述べている。

『人が健康な状態にいる限りにおいては、”霊性な生命力” spiritual force(独裁者)は、”物質的な身体”(有機体)に生命を吹き込む ”パワー”dynamis である。その霊的な生命力が無限の統制力によって人の健康を統治している。さらに、生命力は感覚と機能のどちらにおいても、生物体の全ての部分を、驚くべき調和のとれた状態で維持している。そして、我々の中に”生きる論理に導かれた精神”reason-gifted Spirit が、この生きている健康な身体を、我々人間の存在にとってより高尚な目的のために、自由に使用できるようになるのである。』
(spiritの代わりにmindという言葉を使う翻訳者もいるが−原書のドイツ言語ではGeist−ここにspiritの意味をする)

Rabindranath Tagoreは、同じように考え、次のように書いている。

汝は我を終わりなきものにした
なんと喜ばしいことか
この小さな葦笛よ
  汝は谷や丘に響き渡る
そしてその中に息が吹き込まれ
メロディは絶え間なく生まれ出ずる
このか弱き器よ
汝は何度も何度も空になり
そして何度も何度も満たされる
いつまでも新しき息吹によって

このような引用文は全て同じ考え方である。人間の肉体(有機体)はただ精神 (spirit) の手段にすぎない。健康とは、十分役立つ事が出来る存在であるという特質を持っている。この楽器はのびのびと一杯に広げて使う事が出来る。そこには塞がれたり障害となるものはない。病とは、塞がれていて使えないという事である。健康なフルートは非常に澄み切っており、そのすべての穴は開かれており、相応しい状況に合わせたどのようなメロディも吹くことが出来る。病に罹ったフルートは、その穴の幾つかが塞がれてしまっていて、一音か二音しか出ないような時なのだ。それはどんな音でも出るというのではなく、ある音しか出すことが出来ない。――それはホイッスルとしてしか役に立たないかも知れない。病に罹ったフルートには、ホイッスルにだけしか使えないかのような強迫観念のようなものがある。

病の度合いとは、人がどれくらいの強さで「OK」と感じる状況を必要とするのか、そしてその状況が、どれくらいの強さである限定された方法で作用することを人に求めているのか、という事なのである。健康な人の人生においては、彼らがその状況を必要とするよりも、ずっと状況の方が彼らを必要としている、という事に気づかされる。「OK」と感じるその総量によって人の健康を判別出来る。状態なのではなく、健康な人というのは、どのような状況においてもそれに見合った適切な方法で反応をすることが出来るのである。そして「OK」と感じる為に存在するというような限定された状況を必要とはしないのである。(補足→状況には何も求めない。こうじゃなくちゃいけないと求めることが病の元になる)


妄想 delusion としての障害(ブロック)

さて、何故フルートの穴は塞がれたのだろうか?何故ホイッスルとしてだけ「OK」なのだろうか? 本当にブロックされ、塞がれていたのだろうか?
否、本当にはブロックなどありはしない。
過去に何度か塞がれた事のあるフルートは、それが、今もなお塞がれたままであるというイメージを持ってしまっている。この妄想 delusion が「OK」と感じる為の条件を作り出し、フルート奏者に他の音階を使う事を許さないのである。(Delisionが想像し、ブロックされるために)それ故に、塞がれているという事は「OK」と感じる為のひとつの状態以外のなにものでもない。確実な条件が満たされているのではない限り「not-OK」と感じてしまうのである。これらの状態は、その人自身に対する妄想delusion と彼のおかれた状況から起こっているのである。(補足:つまり条件付の健康=病の状態ということ)
例えばこう感じるかもしれない。「もし私がきちんと出来たのなら、その時に限り、自分は気にかけてもらえ、愛してもらえる。」妄想 delusion は、我々がものごとをあるがままを見ることを阻止する。読者の皆さんは次の課題をしてみると良い。まず、自分の座っている周りをよく見渡してみて、”緑色”の含まれる物を全て数えなさい。あなたの観察力をテストをしますから。・・・さて、では次の質問に答えなさい。”青色”の物はいくつあるでしょう?ある限定された方法で特定のものを見ようとすると、その他全ての事はあなたの観察から締め出されてしまうことがお分かりになるであろう。

病とは、視野を限定する事であり、それは物の見方を狭くすることになるのである。この妄想 delusion に気づくことのみが、そのブロックを取り除く。それはまるで光が暗闇を取り除くように・・である。妄想 delusion は気づきによってのみ消滅する。瞑想・哲学・精神分析学といったものの多くが、人の現在においての誤った認識に対しての気づきをもたらしてくれる。ホメオパシーもまたこれを基本としている。レメディによって、つまりこの妄想 delusion がやって来た元々の状況と共鳴する事により、あなたは自分の妄想に気がつく。このように、それは同じような真実で成り立っている。”病とは妄想 delusion であり、気づきこそが治癒なのである。”

これまで述べたこと全てはとても難解で理論的に聞こえるかも知れない。読者の皆さんが今までのところで理解した事に光を当てて自分自身を見つめる事なしには・・・。もしあなたが正直に自分自身を観察するのならば、あなたは数々の状況の中で、いかに居心地が悪いと感じているのか・・とか、「OK」と感じるような役割にあなたがいかに固執しているのか・・という事がお分りになるであろう。あなたが「OK」と感じるようなこれらの状況というのは、「OK」と感じるようにあなたの状態を満たしているのである。他のいくつかの違ったやり方、そしてその行動は他に相応しい方法があったとしても、あなたは一つの特別の方法でするように、行動は強いられてしまう。ほとんどの場面であなたは、どのように反応するのかといういくつかの選択権を持っている。しかしながらいつもあなたは、その状況がどのようであろうとも、たいていほんの一つか二つの方法でその反応を選択してしまう。この反応や抑えがたい衝動の固定した形式というのは、あなた自身そしてあなたの直前にある状況を見る際の固定した習慣から起こる(強迫観念)。”この強迫観念や抑えがたい衝動の両方ともは、ある状況の中であなたが自分自身をどう認識するのかというところから起こるのである。これがあなたの基本的な妄想 basic delusion なのである。”

およそ、過去又は幼少時に、人は誰もが、この種の習性を余儀なくさせられている状況を体験しているという事にお気づきになるであろう。
たいていの場合、あなたの両親のうちの一人にそのような存在のあり方が強く見受けられるような時に、あなたが母親のお腹の中にいた場合、又はあなたの幼年時代の中でしばしば源となっている状況がある場合、それは特にあなた自身の家族の中での境遇から、あなたは見出だすかも知れない。
もし一人の孤児が、誰からも愛されず、誰も彼のことを心配しないという感じを受け取ったのならば、彼が自分の感じた事を誰かに表現する感覚は出てこない。この反応というのは彼が子どもの頃確実に生き残る為には適切なものだった。しかし彼が大人になった時にさえ、それは固執していて、まだ彼は誰とも通じ合う事が出来なかった。話を聞いてもらえるというような状況におかれてさえ、話す必要がないかのような強迫観念を持つのである。彼は愛を受け取った時にも、受け入れる事が出来ない。彼は心配をしてもらえないとしばしば感じ(強迫観念)、それゆえに、遠慮がちであることを強いられた。(抑えがたい衝動) これは自分を愛する人など誰もいないという彼自身によっての固執した感覚から来るものである。その過去の状況の残像が、あらゆる状況に対して同じような方法で判断することを強いるだろう。たとえ彼が人から心配されたり、望まれたり、尊敬をうけたり、愛されるという数々の状況に触れるとしてもであった。それでもなお彼はこの同じ反応をし続けるのであろう。彼は愛を受け取れないという場所をいつも選んでいるし、そのことで、自分は必要とされてないという感覚を確かめることになるだろう。もし愛された時には、彼はどこかに立ち去ってしまうかも知れない。


あなた自身を見る

この例の考え方によって、あなたは、どんな風に自分が制限されているか、どんな時に居心地が良いと感じるか、そしてそれは何故なのかということについて、あなた自身を、あなたの強迫観念、抑えがたい欲望を見ることができる。そこからあなたは自分の固定観念と恐れの考え、行動と強迫観念を知ることができ、自分の全体的な状況の見方、視点を知ることができ、それが 妄想:思い込み Delision だということに気づくだろう。このような気づきは、変化をもたらす。


適応としての健康

私たちが健常人を検査するとき、Localの解剖学的、身体的な組織と同様にGeneralと心理学的な質も知ることができる。私達は、健常人のGeneralと心的な状態において、正常あるいは健康の一定の範囲にあることを指摘することができるだろう。例えば、体温、汗の傾向、食欲、心拍数、呼吸器の値、血圧、姿勢、睡眠、月経、セックスのパターンなど。心の中の、感情、知的性質を数量化するのは難しいが、怒りや恐れ、記憶、知性、理論、感情などがあり、それが正常といえるかどうかを判断することはできる。
Localの部位についてもまた、胃の酸性度や腎肝機能などについてのように正常範囲というものがある。体の組織:身長、体重、手や足の形、顔など もまた、正常、自然な状態を持っている。どんな組織上の(配列)変化も異常、不健康とみなすことができる。

健康人についても同じであり、私達は心と体の姿勢を見ることができる。この姿勢は、適合反応である。すなわち特別な状況を生き抜くために選ばれたものである。人は猿から進化し、新しい状況の中で生き残るために特別な質と個々の姿勢を発展させたものである。猿は木に住み、果物を食べる。このときちょうど、そのようにしなければならない必要性(おそらくは森の一部の破壊)にかられ、猿は木から降り生き残るために狩をはじめた。これが、人が変化する必要性が起きた初めての状況であり、新しい適合が求められた。人は自分自身を守る隠れ家を建てなければならず、かつて木に住んでいた頃の手腕は持っていなかった。家を建てるために、外からの危険から身を守るために、そしてまた、狩をするために(素早さや爪のようなものを人は持っていないため)、人には以下が要求された。

−知性、創造力
−集団の中で生活し、自分と集団の利害を共有する
−集団の中で平和を維持し、他のグループからは自分のグループ、縄張りを守る
−狩や建物を組み立てるのに役立つ道具や武器を発展させる

この全ては、しなければならないことは生き残るためのものであり、猿から人への進化と呼ばれている変化を生み出した。
それゆえ以下のことをしなければならなかった。

−道具を扱うために直立した姿勢をとる
−手の器用さを発達させる
−知識と創造性を持つということ
−社会的な感情、集団の中での平和を持ち、しかしながら防御的である

この初めての状況に対し、GeneralなこととLocalなこととの全体が適応することによって、結果としてヒトの形が形成された。そしてこのヒトの形で、精神とGeneralな状態が、すべての部分と組織の、機能的に構造的に完全に調和する状態なのだ。お互いに調和し、お互いを成り立たせ、同じ状況に適応した者たちとして至っている。

健康についても、ヒトが「OK」だと感じる状態がある。例えば、その状態のひとつとして「私の生活が危険にさらされるのは「OK」ではなく、安全な状態に達していれば「OK」だ。」他には、「私の周囲が混乱しているのはOKでなく、仲間内がうまくいっているのはOKだ。」ということもありうる。それゆえ健康な人でさえOKだと感じる状態がある。しかし、このような状態と病気の人の状態とは大きな違いがある。


状況から起きてくるストレスと病気の状態から起きてくるストレスの違い

ストレスが状況のみによって引き起こされている場合、状態は釣り合いが取れておりストレスの要素によく合っている。それゆえその状況が終わり、新しい状況に変わると、健康な人は完全に新しい状態に合った姿勢に変わることができる。状況のストレスと病気からくるストレスの一つの大きな違いは状況のストレスの場合(人が健康であれば)、自分自身は「OK」だと感じ、他の人たちと何ら変わらない経験をしていると思う。病気の状態では孤立しており、特別に否定的なように感じる。次の例をとってみよう。


マハトマ ガンディと息子ハライラル

マハトマ ガンディは自伝で初めのうちはイギリスのやり方、習慣を模倣したと記述している。イギリスと同じようなやり方で設立しようとした。彼の努力にもかかわらず、息子ハライラルが生まれたときに、彼の自尊心は極めて満たされない状態になった。ガンディは後に南アフリカに渡った。そして白人用の客室から放りだ出された。その頃から彼の不公平に対する苦しみは悪化していった。彼は、反撃し、従わないようにしなければ何も変わらないことを悟った。彼の主な特徴は下記のとおりだった。

−不公正さに対して敏感
−自尊心が傷つきやすい
−不服従

これらは状況からすると正当であり、それゆえ極めて健康的だといえる。実際、ガンディが欲するよりもさらに情況のほうがガンディを欲したことを私達は知っている。

ハライラルは、しかしながら全体的に違ったストーリーだった。父と同じ Staph.スタフィサグリア の根を持ち生まれ、不公正さと自尊心が傷つきやすいという感情を発達させたが、この状態を正当化する状況を引き起こすような状況的原因は存在しなかった。

ハライラルは疑いもなく厳格な父を持った。がしかし、ーガンディの厳格さはイギリスの不当な態度とは異なっていたーハライラルは容易に父の厳しさを理解できただろうし、父に悪く反応する必要は決してなかったのである。ところが、彼の root根っこ が存在していたがために、状況が必要ではなかったにも関わらず、同じようなことが起こってしまった。(補足:不適切な反応をしたということーつまり、ライオンはもうそこにいないのに、まるでいるかのような過剰な反応をしたということ)

ハライラルは父親とは宗教的に独立しイスラム教徒になった。アルコールを飲み、父親の葬式にすら参加せず、その6ヵ月後に売春宿で亡くなった。彼には父と同じsymptomがあった。

−不公正さに対して敏感
−自尊心が傷つきやすい
−不服従

ハライラルはガンディがイギリスに対して反応したのと同じやり方で、ガンディに反応した。しかし、ガンディは健全であり、ガンディの状態は状況に適応したものだった。だから彼は「OK」だった。他人への余地もあった。
ハライラルの状態は、彼の状況についてのDelusionに基づくものだった。彼はそれを正当化するためにある状況を作り出した。彼は、自身が「not-OK」であったに違いない。そして、その結果他人への余地もほとんどなかった。

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<NO5 PARTT-6最後まで:041128/更新050131>


自我とdelusion


生き残りのための適応反応と呼ばれているたくさんの状況がある。実際これらの状況の中で、人はたとえ自分がその状況が不利益であったとしても、世界全体(世の中・宇宙)がひとつであるとの感じが得られるのであれば、彼はそれを「OK」と感じるのである。 ”自分が分離しているという感じを抱いている人というのは不利益がある人というのではなくって、不利益というdelusion(自分の思い込み)を持っている人のことである。”

足が不自由な人はこの世の他の人に比較して、特に不利である。しかし他の人から切り離されていると感じる事は決してない。 彼は皆と同じだと感じ、ただ足が不自由なだけに過ぎない。そこで、生き残りのメカニズムが採用されることになるだろう。しかしこの生き残りのメカニズムが採用される限りにおいては、やはり自分自身で「OK」と感じるのだ。 彼は現実には「OK」の状況ではない。しかし自分自身では「OK」と感じている。足が悪いということを除いては、基本的には彼は「OK」である。 彼は「not-OK」の人ではなかった。しかしそれが彼の状況だ。この状況が問題であり彼が問題なのではない。 そのうまく対処しているメカニズムや彼が取り入れた適応のための姿勢により、なお依然として「OK」なのである。 何故ならば彼は「OK」であり、他人を思いやるゆとり持つことが出来るし、他人に対しても無条件であることが出来る、ゆえに彼はその人があるがままであることを認めることが出来る。

それゆえに悲劇的なことというのは、実際不利益を持っている人のほうが不利益を持っていない人よりも「OK」と感じているということだ。 足が悪くない人は2本の足でもって歩き、走る事が出来る。しかし彼は足が不自由だと感じることで、そこに大きな問題が出てくる。 彼は自分が足が悪いと感じている事に気づいていない。もしそれに気づいたら、もはや足が不自由であると感じなくなるであろう。 Delusionは隠されていて、決してあからさまではない。ある人がいくつかの方法で不利を感じていたとして、しかしどのような方法なのか知らない。彼のパターンと反応の全ては隠された過去からやってくる。


Delusion

足が悪い振る舞いをする人。彼には息子がおり、その息子は足が良くても、足が悪い人と同じ振る舞いのパターンを取り入れる。 彼は不利益を感じている。しかし何故なのかは分からない。 彼はサポートを必要として他人にしがみつき、他人に対して多くの条件を求めることになる。というのは、彼は自分では理解できない恐怖、執着、強迫観念を持っているからである。
彼には原因もなく確立された反応のパターンがある。 何故なのかわからないけれども不利益を感じるときに、強い「not-OK」の感覚が彼にやってくる。 彼は(気づいていなくても)足が悪い者のように感じる。それは足が不自由でなくてもである。 それゆえに彼は状況に原因があるのではなくて、自分には何か間違った事があるに違いないのだと感じる。 彼は世の中からますます隔離されたと感じる。これらの感覚(自分が足が悪い者であるという感覚)でもって「OK」と感じるために、他人に対して厳しい条件を持つことになる。そして彼がその条件を持つやいなや、彼には他人に対してのゆとりは消え去ってしまい、もはや他人があるがままでいることを許せなくなり、ただ他人のことを何を与えてくれて自分から何かを奪い去るものという観点からだけ考えてしまうようになるのだ。


Ego

Delusionはそれ自身自我にくっついている。 自我は、アイデンティティや個性や安全や名声を失うことで不利益を感じる。しかし何故なのか分からない。 そこで、自我はその状況を正確に再構築しようと試みる、そしてそれは、正当化するための根拠なしに、勝手に自分自身の感覚と状況を正当化することができるのだ。そしてまさにその状況(アイデンティティや個性や安全や名声)を勝手に作り出す事でその正当化の理由をもって来ようとする。

その破綻した状況はある状態を産み出す。その状態は行動パターンを作り出す。行動パターンは自我に影響を及ぼして行く。そしてこの行動のパターンが正当化されるように自我は次の新たな状況を作り出してゆく。 こうして悪循環が形成される。しかしながら、たくさんの自我がその状態を作り出そうとしている。それはまだ十分ではない。そしてその感覚はいつも不当で釣り合いが取れないままで、不満足感はいつまでも残されてしまう。 また同時にどこか深いところで、人は自分自身でその状況を作り出しているということを知っている。そのような行動を正しいとする状況の中では、人の恐れ、執着、強迫観念の意味の気づきが治癒という結果に結びつく。

要約すると、不利益な状況にいると感じている人は、ある特定の恐怖、強迫観念、執着を伴って、ある存在のあり方、行動パターンや思考を作り出している。 こうすることで、その人がその状態の中で生き残ることを手助けする。その状況が過ぎ去ったとき、その強迫観念や執着を伴う振る舞いのパターンは残ってしまうことになる。 そこで人は、もしそのような方法で行動しないと自分の生存が脅かされるように感じる。このdelusionによって、自分の感情や衝動を発達させてゆく。これが病である。 これは心身両面に当てはまる。病というのは「不適切な反応」である。と前の章で述べた。

病というのはとても簡単に自我と引っかかる。それは何故なのか?そしてこの結果は何をもたらすのか? 自我は人のある部分であり、それは人に個性を感じさせ、他人からの分離を感じさせる。そしてそれは人にアイデンティティという感覚を与える。 そもそも、それは健康なことである、何故ならば、それは自分で何かしようとし、また進歩して行く目的意識を与えるからだ。 牛というものは静かにたたずんで反芻している。イギリスの牛、あるいはインドの牛、王様牛または女王様牛やその他の牛をどんな名前で呼ぼうが、何があっても何も変らず同じスタイルで反芻しているだろう。 分離や個性、名声やアイデンティティに悩む事などないのである。そして牛は、家を建てたり、核兵器を作ったりすることもなく、何百万年も同じように生き残って来ている。 ミルクの質も変わらない。低温殺菌されていないし乳製品にも加工することはない。この例は人間の進歩における自我の役割について光を当てている。それ(自我)は彼に分離を与えるのだ。 自我はまた、彼に自分の独自性を保護すること、他と同等であることを維持するように駆り立てる。そしてもし自分が他人より勝っていないのであれば、彼の生命よりももっと重要なものとして自分の名声やアイデンティティの評価をもたせてしまうように仕向けるのだ。 人は自分のアイデンティティ、名声、自我を守ることを重視して、たとえ自分の生命であっても健康について放置する気持ちにさせられる。 一個人のアイデンティティが強烈に保護される。このために国同士が戦争をし、数百万の人達が死んでしまった。私の宗教、私の国、私の名声、私の家族、これらが生命それ自身よりももっと重要なのである。

以前に私たちはこのように理解した。病というものは強迫観念と執着のパターンであると。 生き残るために、人は恐れと条件づけと強迫観念と執着を育んで行った。 例えば、泥棒に取り囲まれたことがある人は夜になると自分のドアに鍵をかける強迫観念にかられ、強奪されるという恐れが強まるのだ。 このパターンは持続して行く。もしお金を盗まれたのであれば、彼は貧乏になるし食べる事が出来なくなるだろう。生き残るための衝動が用心を産み出す。これらはあらゆることに共通である。しかしより大きなストレスは自我からやって来る。 もし自分が貧乏になったら、自分の名声と地位はどうなるのだろう?他人は自分のことをどう思うだろう? そうして自我の疑問というのは、自分は他と同等なのか? もしくはより重要なのか?とはじまり、それがもっと大きなストレスとなってゆく。彼はますます不利益を感じてゆき、彼の恐れはもっともっと分離を感じ、このことは自我の関わりのなかで起きていることである。

一方、動物達はこのような自我の問題は持っていない。それゆえに彼らの病というのは、ただ生き残りのためのレベルでのみ作用する。 ただ生き残りのストレスそれのみである。もし動物が長い期間追跡の支配下にいなければならないとしたら、恐れが生じ、そのパターンは持続するかも知れない。 しかし、このような感情は生じないだろう。「私は自分の地位を失うだろう、なぜならば追跡されそれゆえに特別不利な状態だからだ。」 それはこのような感じだけだろう「追われている。何が起こったんだろう?」人間にはより多くのことが入り込んでいる、何故ならこのような恐れが人を他の人と比較して特別に不利だとさせるからである。 人の自我は簡単に興奮させられる。なぜなら人の自我というのは、いつも他人に遅れずについていくように努力するからだ。個人とアイデンティティというのは重要である。 その感覚は、『もしもあれもこれもしなければ、私は他人よりもうまくいっていない。つまり私は「not-OK」だ。自我が関わっている以上、「OK」にならなければならないのだ。』

それゆえに人は動物よりも多くの病の状態を持つことになる。動物のマテリアメディカMMはずっと小さいだろう。何故なら、動物がさらされるような状況は、それほど変化に富んでもないし、ストレスに満ちてもいないのだ。それはただ生き残りのためだけである。

動物の場合、状況のなかでどのように生き残るのかである。しかし人間の場合は、いかに自我がとても重要に保たれるかが重要なのである。 主人の家に住む奥さんは、そこの家では屈辱的な目にあった。しかし充分に安全であり、食べ物が与えられていた。そこでは生き残りが問題ではなく、自我が問題であった。 彼女の存在の重み、彼女の名前、彼女のアイデンティティが重要なのであり、これが彼女にとっての問題を作り出すのである。

自分たちの問題のいくつかが自我の問題である、他は生き残りのための問題である。でもだいたい多くは両方を含んでいる。 健康な時、人の自我はアイデンティティを感じさせるが特別なものではない。彼はあるアイデンティティや名声を持ってはいるが、他人を上回ってもいないし下回ってもいない。彼は「OK」なのだ。他と対等と感じ今のままの自分で基本的には「OK」なのだ。これこそが健康ということである。健康はdelusionによって影響を受ける。それ(妄想)は分裂を引き起こす。彼は「not-OK」で不利益と感じている。そして他の人と同等であるという状況を満たさなければならないと感じてしまう。他人と同じだと感じるためにである。

私たちは病というのはdelusionであるということを見てきた。しかし、これよりもより大きなdelusionがある。これやそれやのdelusion、それは自我である。 自我がdelusionなのである。たとえ健康であっても。そこで我々は自我を健康的なdelusionと呼ぶ事にしよう。自我は本来健康なものである。なぜならそれは人を進化させるから、しかし現実的に自我というのは人の種としての生き残りのメカニズムの一部分でもある。 人として自分自身で生き残るということがありそして自我がある。しかし自我は種全体の生き残りのための衝動的な部分である。それが種の生き残りを果たすのである。 自我、心、性、生き残りの本能、というのは全て種の生き残りのための人間の中にある構成要素である。そしてこの生き残りは宇宙の計画の一部分なのである。 現実として我々のアイデンティティの感覚は、この”機械”がよりよく作動するようにつくられたdelusionなのである。人はその創造主によって名前を与えられた車のようなものである。それゆえに、自分が、より早くより良く機能するような違いのある特別な何かであるというような感覚を与えられている。

それゆえに、我々は二つのアイデンティティを持っている。一つは独特さまたは自我を持った人間。二つ目は我々のより深いところにあるアイデンティティ。スピリット、あるいは意識、あるいはこの宇宙全体のエネルギーと一緒に振動しているエネルギーのようなものである。 この二つ目のレベルにおいては、自我というのはdelusionとなる。そして一つ目のレベルでは病というのが妄想なのだ。 自我が妄想のレベルになった時、、自我は健康と一緒のものではなく霊性と一緒のものになるのである。 健康であるためにspiritualである必要などない。人は自我を持つ事が出来るし、また持たなければならない。自我は決して我々の不健康な部分なのではない。 まさに、我々が気づきによって病を超越する。自我のdelusionをもまた気づきによって超越できる。

これらの気づきという種類の間での違いについて言うと・・一つ目のケースでは人の病がdelusionと見なすこと。心自体で、気づきをもたらすことが出来たのである。 ところが二つ目のケースでは自我それ自身が妄想であると見ると、(霊的な気づき)

心自体で超越しなければならないこととなり、意識が気づかなければならない。それこそこのdelusionに対する気づくことになるのである。

(コメント:この章は非常に難解。およそ哲学は唯物哲学と唯心(唯識)哲学に大きく分かれる。サンカランは、というよりはホメオパシーでは、唯心(唯識)哲学的なものの見方を基本とする。さて、哲学の基本命題は「我とは何ぞや?」である。サンカランは人は「我」という色眼鏡をして、この世界を見ていると捉えている。従って、人によってこの世界は見え方が異なる。この色眼鏡こそ、その人の思い込みであり、彼はそれをDelusionと呼んだのである。この狭い思い込みが病を作ることになるのだが、この思い込みをしている本人=「自我」すらも考えを極めて行くと実態のあいまいなものであり、自我自体がDelusionとも捉えることが出来る。そして「自我」は個の範囲を超える何かであるという考えに至っている。かつてデカルトは「我思う、故に我あり」と言った。この「我」が西洋哲学の起点でもあるが、サンカランはそれさえも疑わしいと述べていると考えられる。これは仏教の唯識論と近い。インドは東洋である。)

人は心を静めていかなければならない、その時には、自ずから、自我が作り出すdelusionを見えて来たり、経験を積む事ができるのである。

これは霊性なのである。経験なのである。病はdelusionである。もし病が癒えるなら、自ずから健康がやってくる。健康なとき自我がある。自我はdelusionなのである。身体もdelusionである。アイデンティティという感覚がdelusionなのである。 これらを超越した時、あなたは最も崇高なレベルに達するだろう。

『医師の使命は病人を健康な状態に回復させ、前にあったように治癒させること』 霊的なレベルでの気づきと人の病のレベルの気づきの間には、確かな違いというものがあることを理解できれば、充分である。
(第6章終わり)

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<NO.6 PARTT-7途中まで:050130/更新050223>

第7章 治癒の自然の法則

科学における発見や、芸術、文学、霊性、哲学、テクノロジー、その他各分野の人類の活動による発展は、すべてあるひとつのパターンに調和してゆく。同様に、医療の発展と医学の発見も、まさにそれが求められた時に、現れて来たのであろう。最も初期の医療の実際的な治療法は、患者の症状や痛みを緩和するためにあった。指に火傷をすれば、反射的に冷水に浸す。これは、自然な反射作用である。

どこかしら、身体の一部に耐えられないような痛みがあるとき、我々は自然に何らかの軽減する手段を得ようとする。もし出血しているなら、持って生まれたメカニズムが止血しようと働く。もしそれが、非常に痛みの伴うものならば、身体そのものが痛みを抑える物質を作り出す。
ヒューマンテクノロジーの進歩に伴い、ストレスは増え、事故が増加し、それゆえに、より多くの痛みが生じることになった。

自然の力ではそれらに対処することはできず、それゆえ、人間の関心は症状を緩和する方へと向いたのである。

現代医学のある部分は一時的な緩和を与えることを目的としている薬物と関連がある。外科手術もまた、この考えに基づく、その自然な延長線上に生まれて来たものである。皮膚を切ったとき、傷を塞ごうとする自然のプロセスと治癒が発動される。身体に異物が入ったとき、このシステムはそれを外へ出そうとする。それは、身体が生まれながらにして体内外科医を持っていたのと同じ事と言える。

人類の発展によって、この生まれながらにして持つ体内外科医の能力以上のものを要求されるようになり、外科手術が存在するに至った。

感染症との闘いもまた、本来は純粋な自然の領域のものであったが、人類の文明化によって人口集中が起きたことに伴い、人が個々にその感染症と戦う自然の能力を大きく上回る強烈さを感染症が持つに至ったのである。抗生物質が必要になり、これは初めての抗生物質であるペニシリン、アレクサンダー・フレミングの発見につながった。

鎮痛剤、外科手術、そして抗生物質の進歩にも関わらず、人類の健康における最も大きく、最も基本的な問題は未解決のまま残っていた。未解決のまま残っているものとは、病そのもの、即ち、存在全体のエネルギー的に不健康な在り方であった。

我々は前章において、病とは姿勢である、つまりその人の現在の状況においては不適切なその人の存在の在り方である、ということを見てきた。では、我々はどのようにしてこのような在り方から我々自身を自然に癒したら良いのだろうか?

インタビューに訪れたある人の例を挙げる。
あなたが彼を見たところ、ビクビクして、行ったり来たり、明らかにパニックが顔に現れているのが分かる。彼に何と話しかけるだろうか?
あなたは彼に“なぜあなたはそんなに怖がっているのですか?ライオンにでも会いに行くのですか?”と話しかける。すると、一瞬、彼の緊張がほんの少し増して、そしてその後リラックスするのを目にするだろう。

これが、どのようにして起きたのか見てみよう。まず我々は、その人がその状況に対して不釣合いに反応していたことに気がつく。彼に“ライオンに会いに行こうとしているのですか?”と尋ねることにより、実際は彼に、“あなたはライオンに会いに行くかのように反応しているけれど、今の状況はそうではないのですよ。”と言っていることになる。

イメージ上の状況--即ち"今の彼にふさわしい適切な"状況のイメージ--に彼に直面させることによって、あなたは彼に、現実は違うのだ、ということを気づかせることになるのである。この認識こそが、彼の過剰反応を食い止めるのである。

個人的な例を挙げてみよう。
ある日私は車のエンジンをかけると、エンジンからおかしな音が聞こえてきた。車はとりあえずギクシャクと動いていたが、私は車を外へ出すことを大変躊躇した。路上で故障する恐れがあったからである。私は自分の恐れを見つめた時、それがその状況に不適切であることに気がついた。

私は自分自身に問いかけた“一体、なぜ私はアフリカのジャングルの奥地で車を走らせようとするかのように振舞っているのだろう?”この認識が、私をリラックスさせ、過剰に躊躇することなく、恐れを持たず、車を運転することができた。

ここでもまた、同じプロセスが働いていた。私の現実に対する間違った理解(街がまるでジャングルであるかのようなDelusion)に気づくことで、私の不適切な過剰な反応が確かめられ、無効にされた。

ここにきて、これらの例と、”人と犬とライオン”と名付けた我々お気に入りの例えとを関連付けることができる。

犬に追いかけられているのに、まるでライオンから逃げるかのように振舞っている男性の場合、これは彼の心の在り方(つまり病)である。彼はどうやって彼自身を自然に治せるのか?彼は自分自身に語りかけることで治そうとする:“おい、なぜ僕はそれがライオンであるかのように、この犬から逃げようとするのかい?”
これで彼は落ち着くだろう。
一時逃れや注意をそらすような手段は助けにはならないだろう;彼に勇敢になるように言ったり、冗談を言ったりしても何の役にも立たないだろう。彼が癒される唯一の方法は、ホメオパシー的な方法、つまり、彼の反応が適切であったという想像上の(存在しない)状況を、彼の目にありありと鮮やかに見せてあげることである。

言い換えれば、彼が自分自身にこう語りかけるとき:“なぜ僕はそこにライオンがいたかのように走っているのだろうか?”、彼は、自分の行動は適切である、とするような状況を(外的な理由は何もなく)自分の想像の中に作り上げていることを自覚し、そうするとすぐに彼は自分の過剰反応に気付き、そして、治癒のプロセスが始まる。

これまで心的なプロセスに関する例を示してきた。
もしかすると、これは治癒の法則は心の在り方にのみ当てはまる印象を与えるかもしれない。が、そうではない。

我々の存在が心ではそれに気付かなくとも、心の中で我々が容易に識別できる同じプロセスが、生命体全体にも起きる。身体が過剰反応する時、心の過剰反応が起きるのと同時に、同じプロセス(即ち身体に気づきが起きると身体が治癒すること)が起きる。例えば、もし炎症がそれを起こす因子に対する釣り合いを失った場合、生命体はそれを知覚することによりこの過剰反応を止める。

(後の章、特に“Mind and body”で見ることになるが)事実、身体と心は別々のものではなく、純粋な意識としての根本的な統一体を形成している。このレベルにおいて、類似の法則にしたがって、真の気付きと認識が発生し、治癒が起こるのである。これは自然から与えられた方法であり、有史以前からの治療法であった。ホメオパシーは正にこの治癒の自然なプロセスに基づいている。

ホメオパシー的医学は、その人がもう既に前々からそうだった、というような在り方と類似した在り方を生じさせうるものである。このような在り方を生じさせることによって、その在り方は適切な反応だった、というような元の状況の印象やイメージを作り出す。これは丁度、インタビューの前に震えていた男性の中にライオンの印象を、そして私が私の厄介な車を外へ出すことを恐れた時のアフリカのジャンクルのイメージを作り出すようなものである。
ホメオパシーのレメディは同じプロセスによって作用する、すなわち、そのdelusionに気が付く状態を作り出し、そしてその過剰反応を止めさせることによって作用する。

ホメオパシーは、ニュートンより以前に万有引力の法則が存在したように、ハーネマンより以前に存在していた自然の治癒の法則を人類が応用したものである。人類の発展と社会は、個々の生命体(人間)にとってあまりに強力で深すぎるため、生命体それ自身だけでは対処できないほどの強力なdisturbancesを作り出した。その発見と、それゆえに(ダイナミックな)病の治癒への自然の法則への応用は偶然ではなかった。

ホメオパシーの法則(似たものが似たものを癒す)を発見する機は熟しており、それがハーネマンを病のダイナミックな概念に気付かせるよう導いた。それはまた、病とその治癒に対する理解の基盤を提供した。

ハーネマンの重要な貢献は、次のような発見であった。つまり、治癒を起こすことが出来る”薬”というものは、特別な存在のあり方を作り出すことが出来るということ。即ち、その薬のあり方と同じ在り方の人間に与えられた時、治癒が起こせるということである。

ここで我々は精神療法とホメオパシーの比較を行うことができる。いずれの目的も患者をよくすることである。いずれも、病はemotionalな存在の在り方であり、その状況が過ぎ去ってしまった後でも残ってしまうような個々の状況において、有効な生き残りのメカニズムであると認識している。フロイト派の分析による考えでは、治癒は経験または状況を再現し、その結果その在り方の原因を理解することによって可能になると思われている。他の心理療法のmethodもまた似通った原理に基づいている。おそらくこれらの手法は類似の法則を応用するひとつの方法を示しているのだろう。

しかし、私が理解する限りにおいては、この手法の大きな欠点のひとつは、(遺伝的要素を持った)emotionalな在り方の治療に見られる。というのも、その在り方を引きこした元の状況は、その人自身の生涯においてではなく、彼の両親の生涯、もしくは前の世代に遡るかもしれないからである。このように、人はあるひとつの在り方を伴って生まれる。どのような状況も持たない子供でさえ、ひどい落ち着きの無さやイライラ、恐れ、嫉妬などを示す。丁度、このような子供に心理療法を受けさせることはばかげていると思えるように、大人になっても同じ状態が続いているのをよく目にする。その人の生涯に由来する在り方だけでなく、前の世代から伝わるものへも対処することから、ホメオパシーは心理療法に勝るものであると言える。

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<NO.7 PARTT-7最後から8途中まで:050228/更新050501>

P45 第7章:「nature’s Law of Cure」4段目から

ホメオパシーの手法は、それは”何故そうなのか?”という事よりも、そこで、”何が起きているのか?”ということに、より意味がある。(しばしば、その何故?という根拠ははっきりとはしていないのである)
患者のemotionalな状態のトータリティーというのはただ”事実”として受け取られるべきものである。レメディーを見つける為には”何故”存在しているのかということを正確に知る必要はないのである。
ホメオパシーでは、たくさんの理論や解釈は不要になる。と言うのは、患者のその特別な状態の原因に対して様々な心理学の学派が様々な理論を持っているが、それらがいずれであろうと、意味がないからである。

三つ目にしておそらくは最も重要な実践する上での利点というものは、ホメオパシーでは、男性であろうと女性であろうと、そのemotionalな状態についての印象を確かめる手段として、その患者の”肉体的・全身的な症状”というのを使う事が出来るということである。
他のどのようなシステムをも上回るような、感情的・身体的状態の間でのテストされた繋がりを(ホメオパシーは)持っている。
これによって、類似のレメディーを見つけやすくなるということだけではなく、身体的問題が優勢になっている病にまで治癒の範囲が広がっったのである。
このようにホメオパシーはほとんどのケースで、精神分析学やセラピーよりももっとすばやく確実に穏やかに働き、そしてその応用範囲はずっと広いのである。

ホメオパシーというものは、人に自らを見つめさせ、そして本来あるべき姿に戻してくれる。そういう素晴らしい役割を果たすのである。
そしてその人は今は(レメディを飲む以前より)より良く生きることが出来るようになり、そのことは健康の真実に値するものとなるのである。



第8章 ホメオパシーの発展

ハーネマンの「キナ皮」での有名な実験は、新しい治療法の始まりであった。1790年にそれは始まった。
ハーネマンは、マラリアにおいて特効薬として有名であった「キナ」を、健康な彼が飲むとマラリアと似たような症状を引き起こすということを発見したのである。それはハーネマンに、薬物というものは、健康な時には、病気を引き起こす原因となるようなものが、逆に病気の時には治すことが出来るということの手がかりを与えた。

この考えから、ハーネマンは自分自身や何人かのボランティアの人たちとで、様々な薬物をテストすることを始めた。病人と似た効果を見出された時にこれらの薬物を使う事が出来るように、この健康な人々において、どのような効果が引き起こされ得るのかを確かめるためにである。
これらのテストは「プルービング」と呼ばれている。初めのうちハーネマンはプルービングや治療に、薬剤の天然のままの服用量(物質)レベルを用いていた。


Local action of drugs 薬物の局所的作用

1796年にハーネマンは「薬物の治癒能力を確かめる新しい原理のエッセイ」と呼ばれる最初の学術論文を出版した。
このエッセイを読んでみると、明らかにハーネマンのアイデアはその段階では十分に熟成されているとは言い難かった。
彼は薬物が単に臓器に作用し、機能的・構造的に局所的な変化を引き起こすと信じていた。彼はこの新しいアイデアを個々の臓器の関連において使おうとした。いくつかの例を引用しよう。

”コニウムは腺に痛みを生じさせるので、これは痛みを伴う腺の硬結とがんのための最高のレメデイーとなるであろう。”

特にこの一文は引用するに値する。(271ページ、第3節。この章での全ての引用文はハーネマンの「Lesser Writings」からのものである)

”ドクニンジン(Cicuta virosa)は様々な症状を引き起こす。それは喉と胃での強烈な焼けるような感覚や、破傷風、強直性痙攣、真正癲癇などである。
これらの全ての病には効果的なレメディーが必要であり、(もちろんその病の)一つだけであっても、望まれるであろうものが、用心深いしかし大胆な医師(治療家)の手によって、この強力に作用する根(Cicuta)が見い出される。”

ここでハーネマンが、破傷風、痙攣と癲癇そして病気のようなものすべてをじっくりと検討したということを理解する事が出来る。彼はいまだ「病」と「病の症状」との間での違いについて明確になっていないようである。

彼はまたこうも言っている。「コーヒーは頭痛を引き起こす。よって頭痛を治癒する。」と。重ねて、その症状の治癒と患者の治癒との間には区別がなかったことが分かる。

彼はまた病理学的な範囲でのその薬物の効果を説明しようとしている。例えば”ベラドンナはリンパ系の麻痺を生じる”そして”コニウムはリンパ系に興奮作用を引き起こす”
彼はその用語「症状のトータリティー」という表現について言及してはいるものの、まだ彼は一つの薬物によってその原因にも治癒にもなるのだという、「ある一つの症状」を主として引き合いに出しているに過ぎないのである。

281ページ、2節で彼は、こう述べている。
”パンジーヴァイオレット(Viola tricolor)は最初、鯨疹を引き起こす。従ってパンジーヴァイオレットは皮膚病を生じさせる力があるということを示すと同時に、その当然の結果として、同様な皮膚病を癒し、効果的に皮膚病を癒す力があるということも示すのである。”

後年の仕事においてはタブーとなっているが、彼は”皮膚病”という言葉を使っている。ここで彼は主張する。皮膚の病というのがあるのではなく、結果として皮膚の上に表現されて来るような病があるのだと。
1796年、彼がまだ、プルービングの症状を疾病分類学的に合わせようとしているということが分かる。例えば、ヌックスボミカでは「それは卒中や間欠性の発熱に有効であろう」と述べている。
最初彼はヌックスボミカを腹部の痙攣を伴う赤痢患者のケースに使った。彼のプルービングは天然のままの服用量であったということは明白であり、そしていつもかなり大量の服用量の薬剤の処方もしていた。
しかしながら、これは実に初期段階であるということを認めなければならない。
様々な例の中で、彼はたいていはその薬物の神経や精神への影響について、その多くを述べており、実に時々臓器の親和性について述べいるに過ぎない。
もう一つこの論説から明白なことがある。初期のプルービングにおいて、彼は正確な症状を記録するということをあまりきちんとはしていなかったということである。

彼は頭痛や痙攣、発熱等に適した薬物の広範な効果を確かめることに満足していた。彼はまた薬物のたくさんの病理学的効果について述べている。
例えば、”アーセニカムは血液の結合力と凝固能力の比率の減少により筋肉の緊張状態を低下させる。”
彼は、”生命力(vital power)”については述べているが、それについては、まだ漠然としている。
例えばこう言っている。”このように全体的に見ると、アーセニカムはその腐食性とか炎症を起こす(物理的な)力というよりは、そのvital powerや感受性を除外するということ(エネルギー的な力)によってもっとダメージを与えているように考えられる。”

このように、ハーネマンは天然の薬剤の病理学の研究を試み、同時に作用の類似によって得られる有益さを証明するような病理学を推測することを試みたのである。


Discovery of potentization ポーテンタイゼイションの発見

1798年、ハーネマンはまだ天然の服用量での薬物の処方をしているが分かる。流行性の発熱にアルニカを数粒と2-3粒のイグナシアを処方している。そして1801年「しょう紅熱の治癒と予防」というある記述において、ハーネマンは、現在ポーテンタイゼイションと呼ばれている薬の調合の新しい方法の最初のヒントを授けている。

375ページ 第1節
”外用剤として使用するためには、1/20に薄めたアルコールに細かく粉砕された天然のままのアヘンを1片加えることによって作り上げたチンキを用いた。それは一週間冷えた場所で保存させられ、そしてそれを溶かすために時々揺さぶるのである。
内服剤に使うためには、このチンキの1滴を取り出し、薄めたアルコール500滴とよく混ぜ合わせる。そして薄いアルコール500滴でと同様にこの混合したものの1滴は全てがよく混ざるように振られる。
このアヘンのチンキの希釈ティンクチャーを(これは1500万分の1のアヘンが含まれている)内服させる場合、4歳の子どものケースでは1滴を与えれば十分である。そして10歳の子どもに状態を変化させるには2滴で十分だった。”

この引用文から、ハーネマンが弱まったと思われる希釈薬剤についてよく考えていることは明らかである。彼が科学の偉大な発見の一つに偶然出会ってたということ、それについて彼は実に圧倒させられたのだ。

この飛躍的な変化の理由は、あまりはっきりしていない。
一般的な見解では、ハーネマンは薬物の毒性効果の減衰をしようとしていた。同時に薬物が有益に作用をする事が出来るように希釈するということの実験をしていたということになっている。

このことは、彼の初版本”Organon”が出版された1810年まで続けられた。
この”Organon”の中では、「ダイナミック」 あるいは「ポーテンシー」という言葉さえ言及されていない。しかしながら「ヴァイタルフォース」という言葉を用いている。

やがて、1809年に彼は光り輝く論説を書いた。それは「治療の方法の三つの傾向としての所見」というタイトルであった。この論説の中で、彼は以下の間についての違いを明確に示したのである。
−病名に対する治療
−症状に対する治療
−原因に対する治療

彼は我々に、それらの病名ではなくまた症状でもなく、病の原因に対して処方をするということを要求しているのである。


Dyanamic concept of disease 病のエネルギー的概念

1809年〜1813年の間において、ハーネマンの考えに変化と革新が確かに起きていたことが分かる。1813年、彼は”ホメオパシー医学原理の精神”においてこう述べている。

”それゆえに、病原性の有害因子の力的特別な影響によって惹起される病を、生命体の 生命維持に不可欠な特質が乱されることによってのみ説明することができるというこ とは明らかだ。”

そして、最も重要な記述が以下の2点である。

”生命体の状態、健康状態は、それに活力を与えている生命の状態によってのみによるものであるので、このような様式(考え方)においては、変化した状態というのは、私達が病と呼ぶものであるが、それは単に元々生命が持つ感受性と機能を部分的に変えられた状態ということになる。化学的、あるいは機械的原理に関係なく、手短に言えば、それは力的に変えられた状態にある。変化した様態(現れ)、肉体の部分部分の性質における変化は(力的変化の)後に影響を受けたものなのであるが、それは、それぞれ個々人全体の状態を病的(力的)に変化させた際の不可欠な結果なのである。”

”さらに、病原因子の影響、そしてそのほとんどの部分は、私達に対して様々な弊害なしに起こすため、その病原因子の影響は、一般的に、目に見える有形のものでもないために、身体の配列や本体を、機械的に阻害したりしようと、乱したりしようと、私達の多量の体液を化学的に変化させたり破壊したりしうるどんな有害な液を血管に注入しようと、私達の無意識からみると、受け入れがたく、本当のこととは思えず、大きな発見とはなりにくい。病を惹起させる原因は、どちらかというと私達の活力の状態(健康状態における)に基づいた特質によってのみ働く。力的な様式、それはスピリチュアルな様式にとてもよく似たものなのだが、それでのみ起こり、初めに、(力的に)より高いレベルの生命力の器官を混乱させた分だけ、この混乱状態から、生体全体のこの力的変化から、それぞれの個々の器官とその集合体全ての変化した感覚(不快感、痛み)と活性(機能異常)が、同じだけに発生するのである。血管や分泌系の異常な変化、生命の性質の変化という必然的な最終結果、それはもはや健康な状態とは異なるものであるが、これが2次的に発生するのは必然だが、これが同じだけ発生するのである。”

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<NO.8 NO.8 第8章後半:050328/更新日050502>


病の2つの段階

このふたつの文章は実際的な観点から重要である。ここでハーネマンは病を2つの段階にわけた。
 ー最初に起こるバイタルフォースや高次の器官の障害
 ーその結果として生じる他の身体器官の活動性の変異

ここで引用したことから、ハーネマンの考えにきわめて大きな変化がみられたことがわかる。ご存じのとおり、1796年のハーネマンは、Ipec.が胃の神経に働くとかViola.は皮膚病を起こすとか、つまり薬物は局所的に働くと述べていたのに、ここでは薬物は局所的に作用するようなことはなくセンターを通して働くと述べているのである。

この思考の変化はどのようにしてもたらされたのだろうか?私の思うところでは、明らかに、生理学的毒物学的に作用し得るあるポイント以上に薬物を薄めたときですらその薬物が作用するという発見が彼の考えの変化と符号しているように思える。作用するばかりか、希釈と震盪(勢いよく振る)をするほどに薬物の効果はますます強まっていくのである。薬物を希釈してもなお働きを示しそしてますます強力になって いくとしたら、それらはどのようにして作用しどこに作用しているというのであろうか?

ハーネマンが類似の法則を発見していた頃、医学の考え方の中にvitalistic idea(生命を吹き込むものについての概念)が再び表れてきていた。vitalistic ideaの起源は遙か昔にさかのぼり、時折流行していたのである。その概念とは、生命の力の存在に関するものである。この力の存在によって生物と無生物が区別され、また生命体を健康に保とうとしさまざまな臓器系統のさまざまな機能を統合しコントロールし調和させているのがこの力なのである。この力は見ることも測定することもできず、ただその作用によってのみ検証することができる。


バイタルフォース

病とは器官の障害ではなくバイタルフォースの障害である。バイタルフォースがちゃんとしていれば肉体のどの部位にも障害をみることはない。このバイタルフォースの概念は、個々の臓器を病の原因とみなしそれらに変化を起こそうとしたり時に器官そのものを取り除こうとさえするいまだポピュラーな考え方とは正反対である。

医学の考えがゆっくりと変化してきて人や健康状態に関するホリスティックなものへと発展してきたのはごく最近のことであり、人はひとつの全体として病になり身体の全ての器官系は互いに複雑につながり合っていて身体はそれ自体がとてつもない回復力を有しているという理解は徐々に培われてきたのである。

医学の考え方は、症状や器官に対する単なる処置ではごく一時的に有効なだけであり高められなければならないのは全体としての身体が持つ治癒力であるという結論へとだんだん向かいつつある。でも、一体どうすれば良いかとなると途方に暮れてしまう。

1796年、当時の医療は現在よりも極めてひどい状態にあった。瀉血やそういった他の有害な治療法が非常に好まれていた。しかし、その時代でさえ、バイタルフォースの存在について活発に考察していた医学者は何人かいた。そのひとりがReilである。彼は“生命力に関する論説”と題された一文を1796年のHufelandジャーナルに載せている。同じ年ハーネマンも“新しい原理に関するエッセイ”という最初の重要な文章を同じ雑誌に載せている。

間違いなくハーネマンはこの論文を読んでいたに違いにないし賛同さえしたかもしれない。しかし1796年の時点で、彼はまだポテンタイゼーションの重要性に気づいていなかった。バイタルフォースという考えは、ポテンタイズした薬物がいかにそしてどこに働きかけるのかと彼が疑問に思い始める1810年まで彼の脳裏に残っていたに違いない。

ハーネマンはまた化学者でもあったので、ある希釈の段階を超えるとそこに元の薬物はほとんど残っていないということは理解していたであろう。おそらく彼は、希釈された薬物は異なったレベルに影響を与えるようになると推論したと思われる。物質レベル以上の唯一なにか他のレベル、つまりそれはエネルギーのレベルであるだろう。であるから、これらの薬物は、希釈と浸透を受けると、なんらかのエネルギーや力を開放しているに違いない。ひとつの力は他の力と相互に作用するので、身体にはこれらの薬物が作用するような力が存在するに違いない。これらの力とはバイタルフォース以外のなにがあり得ようか。論理的帰結として、薬物は人工の病を引き起こすのであるから病とはこの力の障害と理解されるべきであろう。

これがハーネマンの思考のシフトであったー病を物質的な影響として理解することからバイタルフォースの障害と見なすことへの。これ以降、彼は薬物がこれこれの局所の臓器に影響を及ぼすというような事を述べなくなった。そのとき以来、ホネオパシーは全レベルで変容したのである。


薬物の動力学(エネルギー)的な働き

1813年までにはハーネマンは、薬物の治癒する働きというのは局所の臓器に対する作用にあるのではなく、むしろその動力学的な作用つまりバイタルフォースへの作用にあるという結論に至っていた。最初の障害は高次の器官にあると彼は言う。彼が意味したこととはーバイタルフォースはコントロールを行う器官系統を介してまず働きかけるということである。薬物はバイタルフォースを惑乱させてこれらの系統の機能障害を生みだし、この系統を介してのみさまざまな器官に対して局所的影響を及ぼすのである。ハーネマンは“高次”の器官が何かということは正確に定義していない。

ハーネマンが述べているのは、身体のそれ以外の部分に対して支配的影響を及ぼしかつその障害によって生命体全体に全般的影響を生じさせるような器官系統の事であると考えるのが合理的であろう。これらの器官系統とはどのことであろうか?言い換えると、その障害によって総体的全身的な影響を生じさせる器官系統とはどれであろうか?

 現在私たちが持っている医学知見から、そのような器官系統として四つ同定することができるだろう。

ーマインド:その障害によって遙か遠くにまで達するような影響を心臓や肺やほとんど全ての身体の部位に及ぼす。たとえば、びっくりしたときに動悸や息切れ、発汗、震え、排尿回数の増加などが生じる。

ー神経系:その障害によっていろいろな器官や部位に、痛み、敏感さなどのいろんな感覚が生じる。

ー内分泌系:内分泌系の障害(ホルモンの増加や減少)によってさまざまな部位に変化が起こることが知られている。たとえば、成長ホルモンによって骨などに変化が生じるし、男性ホルモンや女性ホルモンによって思春期や更年期といった変化が起こる。さらにコーチゾンはいろいろな系統に様々な変化を生じさせる。

ー免疫系:この系統の障害によって、身体の様々な部位が感染を繰り返しやすくなったり、またアレルギーや自己免疫疾患を起こすことがある。


P-N-E-I軸

マインドはその他の三つの系統(神経ー内分泌ー免疫系:N-E-I系)を介して身体に働きかける。これら三つの系統は相互に複雑につながりあい、そのため精神Psyche(P)に生じたある変化はN-E-I系の特定の症状と結びつきを持ち得る。そしてこれらの系統が総合してひとつの軸axisを形成する。すなわちP-N-E-I軸である。

身体の他の系統のコントロールや制御を行っているのがこの軸である。この軸の特定の障害によって生命体全体のある特定の状態が引き起こされる。ホメオパシーの薬物が引き起こすことのできる動力学的な惑乱(dynamic disturbance)はこの軸を介して働いているはずである。それゆえに、患者がこの軸において感じる症状は局所の症状などよりもまずはじめに見られるものであろう。

人それぞれ生まれつきある特定の器官の病理を起こす傾向をもっている(あるいは生きていくなかでそれを獲得する)。たとえば、ある人は生まれつき虚血性心疾患を起こしやすかったり関節リウマチになりやすかったり、あるいはその両方になりやすかったりする。P-N-E-I軸が正常に機能していればこういった傾向は活性化されることはない。しかし、この軸に変化が起こると、つまり精神面が不健康な状態にあり神経系、ホルモン系、免疫系の惑乱を伴ってくると、当然そういった傾向が活性化されて実際に病理変化が起こってくる。


中心となる障害Central disturbance

P-N-E-I軸の症状を総合すると、Central disturbanceと私が好んで呼んでいるものに相当するものとなる。当然ながらこのCentral disturbanceが個々の器官に大なり小なり障害を作り出す。Central disturbanceがどのような器官系統に大きなトラブルを生じさせるかというのは障害の性質にも依存しているが単にそれだけではない:人それぞれの器官の感受性susceptibilityや弱さに応じてさまざまな形をとるのである。

Bryoniaという薬物は胸膜に親和性があることが知られているけれど、そうだとしても甲状腺の問題を起こしやすい傾向がある人であれば、thyroidis甲状腺の障害を起こしてしまうかもしれない。しかしその甲状腺の障害はBry.の特徴つまりちょっとした動きで痛みが悪化するといったような特徴がみられるだろう。そして、たとえこれまでにBryoniaが甲状腺の障害のケースで処方されたことがなかったとしても、Bryoniaによってそのようなケースは治癒されるだろう。こういった理由で、レメディがそのCentral disturbanceをカバーするものであれば、たとえ病理状態がそのレメディに特異的なものでなかっとしても、そのレメディは部分の症状the particulars/病理状態を治癒し得ると言えるのである。

さてここで、臨床的観点からどういった症状がP-N-E-I軸の症状あるいはCentral disturbanceの症状と考えられるのかを検討していこう。

ー精神状態の症状:患者の精神状態の症状についてハーネマンはオーガノンの211章に、正確に観察することのできる医者にとって精神状態の症状は病の最も明確な症状である、と述べている。精神状態の症状はしばしばレメディの選択を決定するものとなる。

ー総体的症状:これらには以下のものが含まれる
 1 全体的モダリティ、たとえば熱や寒さ、ノイズ、動きなどに対する反応性。これらは神経の感受性・敏感さsensitivityのためであり、神経系の固有の感受性を示している。
 2 食欲や喉の渇きの変化もまた身体の全般的障害の表れである。
 3 なにを渇望し嫌悪するかはその人全体に関わる固有の欲求を表している。
 4 睡眠と夢はマインドと神経系の機能である。
 5 発汗のパターンは自律神経系と関わりがある;汗の匂いや染みつきは全身的な代謝の変化によるのであって汗腺の病理状態を表しているのではない。ゆえに、汗の症状は総体的症状である。
 6 女性の生理に関する症状や更年期の症状、また男性にしろ女性にしろ性欲の亢進や減退といったような性機能や性衝動の障害はマインドや神経系とともに内分泌系に属するものである。
 7 感染症、風邪、イボwarts、アレルギー等に対するかかりやすさは免疫系が関わっている。これらの症状もまた総体的症状に含まれる。

ー全く器官的基盤を持たない極めて特有で特徴的な症状もまたP-N-E-Iの障害・Central distrubanceを表すものである。

 身体の特殊な部位のある特定の症状は局所の問題と見なされるべきではない;Central disturbanceの表れとして扱わなければならない。たとえば、足の裏の焼けるような感覚(Sulphurでみられるような)は足の病理状態を表しているのではなく神経系の特有の変化の表れである。同じように、Nitricum acidumの臭く不快な尿は腎臓の病を示しているわけではなく、Central disturbanceによる代謝の変化の表れである。Nit-ac.の人は汗にも尿と同じような匂いがすることを知ればこのことが理解できるだろう。

 同様に、Nat-m.の太陽起因性の(太陽にあたることからの)頭痛は太陽に対する神経の敏感さを表しているのであり、頭の神経がこの種の影響に大きな感受性を有しているのである;SiliceaやCalc.でみられる汗まみれの掌もまたCentral disturbanceの表れである。このように、レメディの多くの重要な特徴は病理状態を表しているのではなく、正確にはCentral disturbanceの表れなのである。

 ー上の3つはCentral disturbanceを表しているのであるけれども、局所の病理状態の持つ固有性というのがしばしばCentral disturbanceと符号した状態でみられる。言い換えると、Central disturbanceをカバーするレメディであれば、局所の病理状態が持つ固有の特徴(peculiarites)をもカバーするのである。

たとえば、甲状腺の腫脹というのは局所症状である。甲状腺の問題を起こしやすいというその人の感受性や傾向が原因としてある。しかし、痛みがちょっとした動きで悪化するという場合、そこに、論理的に説明づけられるものではなくその人の持つ器官の感受性や傾向によってのみ説明可能な神経のある固有の要素が付け加えられることになる。それゆえに、その固有の神経の要素、モダリティ、はCentral disturbanceの局所的表現であると捉えなければならない。こうして、局所の器官の病理によっては説明できないようなモダリティや感覚は必然的にCentral disturbanceの表れとして理解されなければならないのである。


Central distrubanceの重要性

それゆえに、Central disturbanceを特定しようとして探していく場合、まず精神状態を見て、ついで全身的症状や特徴的症状に目を向けていくべきである。この後にはじめて局所の持つ固有性がそのレメディにフィットするかどうかをチェックすべきであろう。最後に、好奇心から、その病理状態がそのレメディで治癒可能なものかどうかあるいは治癒されたことがあるかどうかを見てみるのも良いだろう。しかしたとえそういったケースが無かったとしても、Central distrubanceがそうであればそれで十分である。

Central disturbanceの症状も局所の症状も同じ障害によって生じたものであるので、あるケースのCentral disturbanceをカバーするレメディが局所の症状をもカバーするということはしばしばみられることである。しかしそうでないケースの場合、Central disturbanceをカバーするレメディを与える方が安全である。プルービングが徹底的に為されたものでありさえすれば、感受性のあるプルーバーの場合、薬物によって(レメディのCentral distrubanceと)同じ局所症状を生じると考えられる。まず最初にCentral disturbanceが生じてくるのであって、プルーバーの個々の臓器の感受性に依存してCentral disturbanceが起こるわけではないからである。これには唯一例外がある。それは精神や総体的症状が十分に出てくることなくいくつかの特殊な部分の症状Particularsが知られているようなレメディの場合である。局所の固有の状態がそういったレメディでカバーされるものであれば、十分に考えた上で処方する必要がある。そのレメディを処方する根拠としては、類似の精神状態を生じさせることのできると思われるヒントがなにかありさえすれば十分である。もちろん、こういった場合は、患者の精神症状や総体的症状が他のレメディではクリアーにカバーできないとかフィットしないということを確認しておかなければならない。

ほとんどの場合、患者の精神状態を明確に描き出すことができれば極めて明確にレメディがその姿を現し、そしてそのレメディがさらに総体的な症状や特徴的な部分の症状も類似していることがわかりそれによって二重に確証される結果となるであろう。

次のセクションではレメディと患者の精神状態を正確に決定するための方法や手段について徹底的に検証していきたい。

注記

1 いくつかのレメディのいわゆる臓器親和性というのは動力学的影響(ポテンタイズしたものによるプルービングの結果)によるものではなくその薬物の毒物学的特性から得られた残り滓的なものとして記されてきた。

 たとえば、未精製のCantharisが膀胱や尿道に局所的作用を持つので、多くの著者がCantharisの作用領域として尿路系を言及している。これは非常に誤解されやすい。ポテンタイズした場合、Cantharisはそういった刺激性の作用を起こすにはあまりに量が少ない。動力学的特性が見いだされた時にCantharisはレメディとなる。その場合、どこにも局所的直接的作用は及ぼさない;ただ中心的なところにのみ作用しそこを介して影響を与えることができるだけである。『ポテンタイズしたレメディは、マインドや三つのコントロール系に代表されるようなバイタルフォースを除いてはどのような作用領域も持たない』。ポテンタイズすると、薬物はその毒物学的局所的作用を失い、総体的全身的/動力学的作用が高まるのである。

大量のバクテリアは生体の反応を引き出し、また局所の器官の病理状態を引き起こす。しかし、それを弱毒化してワクチンにすると器官の病理変化を引き起こすことはなく、ただ生体反応を刺激する力だけを保持しているものとなる(病原性を失い抗原性は保持する)。

2 薬物の毒物学的特性と動力学的特性には違いがあるにもかかわらず、マテリアメディカの多くの症状は未精製の形でのプルービングとともに毒物学的効果から得られたものが記されてきている。

3 ハーネマンの初期のホメオパシーの経験から、つまり1790年から1796年のそれから、第2のタイプのホメオパシーも可能であることがわかる;すなわち器官ホメオパシーあるいは粗野なホメオパシー。ここでは、罹患した器官に未精製の薬物は影響を与えるという事実に基づいてレメディを処方することができる。ホメオパシーの様式にのっとっているにも関わらず、レメディが局所的に作用してしばらくのあいだ局所臓器の病理状態を軽減するということがありそうに思われる。しかし局所の病理状態はCentral disturbanceに由来しているのであるから、“局所のレメディ”の効果は短いものとなるだろう。局所の病態は消えるかもしれないが、病がもっと重要な器官に出現し、そうやってケース全体がもっと複雑化していくということが可能性として考えられるであろう。

 それでは毒物学全てがホメオパスにとって無価値であるのか?という疑問が起こってくる。薬物の動力学的な症状として毒物学から得ることのできるような症状が存在するのだろうか?この答えは簡単である。既に薬物の動力学的な作用についてはP-N-E-I系に基づいて定義している;したがって、毒物学においても、P-N-E-I系における薬物の機能面の効果(未精製のあるいは毒性を示す量であっても)は薬物の動力学的症状としてとらえることが可能である。処方に当たってはこれらの症状のみを使うことができるのである。レメディをポテンタイズした形でプルービングした場合にもこれらの症状だけはみられるであろう。たとえば、Opiumの場合、毒物学的な効果として腎臓や脾臓などへの作用ばかりでなく、神経系に作用して鈍麻した状態や嗜眠状態を生じさせ、マインドには愉快な楽しげな状態を生じさせることがわかっている。これらの症状は、それらと一緒になっている機能障害や病理状態と合わさってポテンタイズしたOpium像を形づくってくれるであろう。

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<NO.9 NO.9 第9章 中心的乱れ:前半:050424/更新日050503>


ホメオパシーのビジョンを発展させる核心は病気を癒すものは何かを理解することである。それは、病は何か局所的なものではなく、全体の乱れであるという真実を知覚し、感じとり、知ることが出来るということである。もし病の中心にいて、乱れを取り扱うなら、局所的な問題が減ってゆく事は揺ぎ無い信念となるであろう。これは、つまりポテンタイズされたレメディだけが、中心的乱れ:Central Distubance に影響を与えることが出来るということを理解することである。

これらのポイントは、我々の思考プロセスの一部になるように、繰り返し強調され、説明され、実証される必要がある。このこと、そしてこのことのみが、私たちを信頼できる成功したホメオパスにし、臨床において起きてくる混乱を我々の精神から取り除いてくれるのである。この視点からいくつかのことが明らかになってくる。そして、ホメオパシーのルールや原理は絶対的な論理となり、もはや独断ではなり得ないだろう。精神の重要性、トータリティに対する様々なアプローチの違い、症状の評価、病理の重要性、レメディの作用の位置づけ、ポテンシーの選択、ケースの予後についての疑問、これらすべての疑問に対しては、一度ビジョンが開けば全くもって簡単に解決されるだろう。これが、私がこの章を執筆している理由である。

前の章では非常に似ているアイデアを試そうとした、しかし今回は新しい角度で試そう。すなわち、臨床での観察を通じるやり方である。私たちは『オルガノン』の211章で言及されているハーネマンのもっとも深遠な観察の一つを引き合いに出してみたい。すなわち、”精神状態”がしばしば主としてレメディを選択するというものである。まずは"精神状態"が何を意味しているのか考察しよう。特異で固有の症状について、そしてどのようにしてそれらも中心の乱れを表現しているのかについて話をしよう。それはケントやボガーやベニングハウゼンの哲学にも通じるものがある。私たちが言ったことをよく理解できるように実際のケースを使うことにしよう。


精神症状ではなく精神状態

『オルガノン』の211章を読むと
"このことから、次のようなことが言えるだろう。つまり決定的に固有な症状は、正確に観察する医者からは隠すことは出来ない。患者の気質の状態こそ、レメディ決定にとても重要なのである。"

この言葉をよく見てほしい。そこでは"気質の状態"と言っている。"状態"であって、"症状"ではない。"これはホメオパシーのレメディの選択を主として決定する精神症状"とはハーネマンは書いていなかった。突っ込んで考えてみよう。彼は私たちに症状を記録することを求めてはいない。彼は私たちに患者の精神の"状態"を理解することを求めている。決して、"反論に対して耐えられない"だとか”支配的な”とか書いてはいけない。これらはすべて単なる症状である。これらの症状を引き起こす精神の状態を理解して欲しい。もし症状に注目するなら、多くのレメディを導いてしまうだろう。しかし状態に注目するなら、そこにはたった一つのレメディが存在するであろう。

すべてのレメディは異なった気質の状態を持っている

212章にて:
"治療に有益な作用因子を持つ薬(物質)は、すべての病について、その病の主たる特徴だと思われる特異性を持っている。 患者が健全な状態で試した時に気質や精神を著しく変化させることができない医薬品には気質や精神の変化した状態を改善する力はない。 そしてすべての有益な薬は、それぞれが異なった道筋で作用するのである。"

どのレメディも特徴を持った特異な精神の状態をもっている。そして、それぞれのレメディはある一つの状態を生み出す。また一方で、それぞれの患者も、ある一つのは精神状態を持っている。もしあなたが症状どうしを比較するなら、ジャングルで迷うことになるだろう。もしあなたが、その状態を理解するなら、その状態を生み出すたった一つのレメディの存在を見つけることになるだろう。

211章ではこう言っている。"気質の状態...特徴のある。それは正確に観察する医師から隠し通すことは出来ない。"

言葉に注目して欲しい。私たちは精神症状が一番わかりにくいという、しかし、ハーネマンはこう言っている”隠し通すことははほとんどできない” 誰からであろうか?”正確に観察する医者から。”単語は"観察する"である。もしあなたが観察が出来るなら、あなたから精神状態を隠すことが出来る患者はいない。彼は「正確な質問をする医師から隠し通すことはほとんど出来ない」とは書いていない。医師は観察者である。精神状態は大抵は質問よりも観察から見出されなければならない。熟視しなければならない、注意しなければならない、理解しなければならない、状態を感じなければならない。あなたは患者のした経験を追経験しなければならない。これは特に精神症状の治療のアートである。それは決して次のような単純な質問からは得られない。”怒っていますか?悲しいですか?憂鬱ですか?”

”患者の気質の状態はしばしば主としてホメオパシーのレメディの選択を決定する。”これの意味するところをケースの例を通してすばらしい説明をすることが出来る。

ケース

以前は色黒だった白斑をもつ女性が私のところに来た。彼女はアメリカへ行き3-4ヶ月すごした。これは11年前である。この3-4ヶ月の間に、どうしてだかわからないが両腕、両足、そして顔の両面の肌の色が一緒に褪せはじめた。ゆっくりと2-3ヶ月かけてすべての色があせ、彼女は完全に白色になってしまった。

私が彼女を見たとき、(彼女の元の肌の色である)茶色の部分はひとつもなかった。彼女は多くの皮膚科の専門家に行き、いくつかの治療を試したのち、彼らは彼女に、彼女のメラニン細胞は完全に破壊されていることと彼女の元々の肌の色に戻る希望はもはやないことを伝えた。彼らは彼女にこれについては治療法がもうないので、忘れてしまうことを勧めた。

もはや彼女は肌の色の事は忘れていた。しかし9年後、非常に刺激性のある激しい痒みを伴うおりものが出てきた。彼女はおりものの治療をアロパシーの薬で試みた、しかし結果は芳しくなかった。それで、彼女はおりものの治療のために私のところに来たのだった。

この肌は彼女の正常な肌色なのかを彼女に尋ねた時、彼女は「いいえ違います、先生。だけどそれについては忘れたんです。何もできる事が無いので、肌の治療については悩まないことにしました。先生は私におりものに対する薬を処方してくれるだけでいいんです。」と言った。

わたしは彼女にホメオパシーのアプローチについて説明し、私たちのやり方はホリスティックな治療であり、彼女の肌を元の肌色で斑状にしてしまうかもしれないことを説明した。彼女は言った「ええ、もし肌の色がもどるならうれしいです。」わたしは彼女にヒョウのように斑な状態になってしまうかもしれないので、決してすべてがうまくいくとは限らないと言った。しかし彼女は賢い女性であり、こう言った「もし治療がうまくいくなら、しばらくの間ヒョウのような斑状態になっても気にしません」。

そして、彼女のケースを扱い始めた。わたしは彼女に彼女の欲求について、渇きについて、尿について、便通について、睡眠について、汗についてなど話すように要求した。しかし、何も得られなかった。症状がない、なんてこったい!完全に何もないのだ。今、私がなすべきことは何なのか?わたしはいくつかの症状を得た。ひとつは、彼女が非常に温血な患者であること、2つ目は彼女のおりものは刺激性があり痛みのあること、そして3つ目は彼女は長時間の散歩を好むことであった。

わたしが導き出したのはたった3つの症状だけであった。1時間半から2時間の問診の後、わたしのノートはこれらの3つの症状以外は空白であった。何をすればよいのだろうか?ノートは真っ白であり、私の心も真っ白である。何のレメディも存在しないのだ!

私は彼女に尋ねた。
「あなたは短気か、教えてください」
そして彼女は答えた
「ときどきね」
「心配症ですか?」
「いいえ、特に変わったところは何もないわ。」

しかしふと、私何かに気が付いた。インタビューはとても素晴らしくいったとわたしは観察していた。そして、私はそれを実に楽しめたのだ。この女性といるととても楽しかった。彼女はとても多弁であったが、症状として得られることは一言も言わなかった。しかし、彼女はとても表現豊かであり、彼女との会話には沢山のユーモアやジョークがあった。私のした質問に対して、彼女はユーモアのある回答をした。私は笑い、彼女も笑い、わたしのアシスタントも笑った。しかし、ノート上には何の症状も記すことがなかったのだ。

わたしは彼女に尋ねた。
「睡眠はどうですか?」

彼女は答えた。
「時々、眠りを妨げられます」
「何時に?」
「午前2時ぐらい。私は時々眼を覚まして、1時間か2時間、眼を覚ましています。」
「そのとき何をしているのですか?」
「まぁ先生!何が出来るって言うのかしら!わたしは座って神様とお話をします。実際、わたしたちはとても楽しい会話をしています。」

そこで、わたしは彼女に言った。
「そんな時間に神様と話をするなんて、とても迷惑なことだとは思いかせんか?」

素早く自然に返ってきた答えに注目してみよう、彼女は言った。
「先生、誤解しているんですね。神様が眠っていないときは、誰かと一緒に居たいから、私を起こしに来るんですよ。」

インタビューは素晴らしかった。しかし、症状は見あたらない。一体どうすればよいのだろうか?

精神の状態を知覚する

そしてそのとき、突然、わたしはわかったのだ。彼女はケースでとてもすばらしい症状を表現していたのだ。それは、"冗談混じりのおしゃべり"(Synthesisレパートリーより)であった。つまり、私はこれらの2つの症状"冗談混じりのおしゃべり"を得ていた、そして症状を付け加えた、刺激性のあるおりもの、温血の患者、外気での行動への欲求。

これにより、Kalium iodatumというレメディに行き着く、そして、あなたはその処方だと自信を持つことが出来るだろう。完全に確かにである。私もPhatakのレパートリーで見出した。そして、Kalium iodatumには"左右対称的な疾患"というルーブリックがリストされている。

"冗談混じりのおしゃべり"はKalium iodatumが与える精神状態の一面である。もし"肌の色の消失、白色のしみ"を特異な症状としてKentのレパートリーで参照するなら、Kalium iodatumは見当たらないだろう。

それが私の強調したいポイントである。もしルーブリックスから始めたなら、確実にKalium iodatumを見逃すであろう。それが、何故ハーネマンがこう書いたのかの理由である。"このことから、次のようなことが言えるだろう。つまり決定的に固有な症状は、正確に観察する医者からは隠すことは出来ない。患者の気質の状態こそ、レメディ決定にとても重要なのである。"

症例から得られた第1の原理

従って、私たちがこのケースから得られた第1の原理は
患者の精神状態と一般症状をカバーするレメディは部分的症状をカバーするレメディよりも治癒に対して大いなる可能性を秘めている。である。
これは、実例から学んだ演習の一つである。非常に多くのケースにおいてわたしは精神や全体症状から決めており、レパートリーでの部分症状は考えていない。これまでそうすることで成功してきている。しかし、逆の事をしたときはいつも失敗してきた。

このケースのフォローアップをすると、彼女の肌は進行的に変化が見られた。ゆっくりと肌の色は左右対称、相似的に元に戻っていったのである。


ケース

もう1つ良い例がJayesh Shah医師から届いている。それは甲状腺の腫れのケースで、極度の痛みを伴っていた。厳しい症状が起き、自己免疫疾患・甲状腺症(橋本病)ということが血液検査で分かったが、これを治療するのは大変難しく、深刻な状態となるのでした。その患者は初めて彼の所に来た時、あまりにも痛くて話すことができなかったので、症状を紙に書いて訴えた。「甲状腺があまりにも痛く、飲み込むことができない」と。

それから彼はレパートリーを開き、"のどの外側:甲状線腫の痛み、嚥下時に”・・この見事な症状を見てください。彼は1つのレメディ Spongia tosta を見つけ出した。"素晴らしい、他に何に頼ることなどあろうか。ケントは私に贈り物を与えてくれた"と彼はつぶやき、Spongia tosta200を与えて、この処方に確信を得ていた。

翌日、患者は戻って来て、「前はつばを吐くことが出来たが、今はそれさえ出来なくなってしまい、痛みもおさまりません。むしろその激しさは2倍ひどくなり、全然良くなっていません!」と書き出した。

そこで、Jayesh医師は、彼女が表現しているのは、「微細な動作からの悪化」ということに突然気付いたのである。飲み込む時に甲状腺は上下に動く。彼女が飲み込んだ時、甲状腺は動き、つばを吐いたり、話した時に甲状腺は震えていた。わずかな動作、微細な動作、どんな動作もほんのわずかな痛みではなく激しい痛みを引き起こすのである。微細な動作が激しい痛みを引き起こす。この表現はSpongiaでは見られず、Spongiaの一般的な法則に当てはまらない。Spongiaには「甲状腺腫、嚥下時の痛み」という項目がある。しかし、患者が「ある部分が少しでも動くと激しい痛みを引き起こす」と訴える時、その症状はSpongiaとは異なる。このモダリティはBryonia albaにマッチし、彼がBryoniaを与えるや、24時間以内に劇的な回復が見られた。Bryoniaは Kent's Repertory には「甲状腺腫」という項目は全く出て来ない。

特定の症状を満たすレメディであっても、全身的な症状を満たしていなければ治療できないのである。それは作用しない。

覚えておいてほしい。このBryoniaというレメディ単に動作から悪化するというわけではない。もし患者が膝の厳しい炎症があり、彼が小指を動かす時、その痛みが悪化するのならば、それはBryoniaが当てはまると言える。しかし、膝に炎症のある患者が膝を動かす時、痛むと話したとするなら、この場合はBryoniaではない。私たちは症状の選び方を知るべきなのである。それは何らかの動作から悪化しており。私たちの先生は、このように描写している。膝に炎症のある患者がベットに横になり、カーテンが動いている時、叫ぶのだ。 "まずそれを止めてくれ!" これがBryoniaにおける微細な動きからくる悪化の範囲なのである。もしこのモダリティが体の部分のどこかで見つかるのなら、他のどのレメディでもなく、マテリアメディカをくまなく調べても Bryonia となります。Spongiaではない理由がここにある。

この症状は特定のものではなく、Bryonia の一般的なモダリティであり、甲状腺腫部位に現れたのである。

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<NO.10 第9章 中心的乱れ:中盤 P.62〜:050528/更新日050625>


<症例>

もう一つのケースを出してみよう。9歳の子供のケースである。彼は咳の問題があってやって来た。その咳は4ヶ月続いている発作性のものだった。私は彼にDros.ドロセラとCupr.カプラムメタリカムといくつかのレメディを与えたが、効果が出なかった。

マッチすると思われるレメディで効かなかった場合、ホメオパスには何ができるだろう?このケースを再度見直して、処方し直さなければならない。これが、私が話をしてきたことである。「マッチすると思われるレメディで失敗したとき、それは類似性を示していないのである。類似性のある正しいものを選べば効くのである。」 「マッチすると思われるレメディで失敗したとき、Tub.テュバキュライナムかSulph.サルファを与えなさい。」とは、私は教わらなかった。先生達はこういう逃げ道的処方を唱えてはいない。効かなかった時には、「ココナッツの殻を割るように己の頭の殻を割って、考え方を切り替えると、ケースは開かれるだろう。」ということを教えてくれており、それが私達のすべきことである。

ある日、夜の8:30あたりに私はその子を診療所に呼んで、通常の診察を終えてから、彼を座らせた。今日は、私がレメディを見つけるまで、この場所から私も彼も離れられないことを伝えた。私は彼を40分間観察し、突然奇妙なことに気がついた。その子はとても特異な方法で咳をしていた。椅子の両端を掴んで、咳をするときは毎回ひざを上げ、頭を下げた。私はケントのレパートリーの「咳」をもう一度開けてこの特別な症状を探した。ページの最初から最後まで読んだが、探したところからは見つけられなかった。おそらく全ての章を探した・・・というのは、見つけたのは最後の最後のページのルーブリック「咳、激しい、頭を前に出し、ひざを上げる発作性の」だったからだ。そのレメディはTher.テリディオンと呼ばれるものである。

Ther.テリディオンのことは、あまり確信をもてなかったので、母親に彼がいつもこのような咳の仕方をしているか尋ねてみた。「いつもですわ。ベッドに横になっている時でさえ、身体は咳のたびに引き寄せられ、二つ折りになるんですの。初めからそんなふうですわ。」

母親がこのことを私に伝えるとき、この声はとても大きく、その子は「母さん、静かにして吐きそうだよ。」と訴えた。

この2番目の症状「吐き気、から、音」をケントのレパートリーで探した。そこにあったのは2つのレメディだけだった。CocculusとTher.テリディオン、いずれもイタリック(2点)だけだったので200CのTher.テリディオンを処方する勇気を持った。何故なら、そのレメディは、ケース全体をカバーし、「音から悪化」というモダリティをもカバーしていたからである。音に対する感受性があまりに強いため吐き気をもよおさせるのであった。Ther.テリディオンは24時間以内でその子を治癒させた。驚くべき事に! 私はこの子を6年間、診ているがもはや咳はしない。ちょうどその直後に同じような咳をする子供がやって来たので、自信を持ってTher.テリディオンを与えてみたが、無残にも失敗した。理由は、音に対する感受性、あるいは他に類似性を示す付随症状がなかったからである。


<第2の原理-第1の原理の推論 >

ここで、こう言っても良いだろう。
「もし、そのレメディが、全体面や精神面をカバーすることなく、部分症状だけをカバーするものであるなら、効果は得られない。」

あなた方のほとんどが、私の提唱した第2の原理が特に奇抜な事ではないことに同意するだろう。これらは、ホメオパシーの多くの先生達によって力説されて来たのである。

これらの観察から何が説明出来るであろうか? この説明が、哲学のドアを開く鍵であり、そして多岐に渡るアプローチ法やホメオパシーの学派間における違いを埋めて行く鍵でもある。

論理の原理の中の一つは、無知から発生した論争である。もしも知識があれば、口論することもない。なぜならば真実は一つだからである。だから口論する人たちの中には無知があるに違いない。私たちは、この様々な学派間における論争を解決するよう努めようではないか。そして一つの説明によって、それらの多くを解決することができるであろう。


<病において治癒しうるものを知れ >

「オルガノン」の第3アフォリズムで、ハーネマンはとても基礎的なことを述べている。第3のアフォリズムはおそらくオルガノンの中で最も重要なものの中の一つであろう。 彼はこう述べている。

『医師は色々な病気に関して、つまり、それぞれの独立の症例すべてにおいて、治癒すべきものを明確に知覚すべきである。同時に、様々な薬に関して、つまり、それぞれの独立の薬すべてについて、どのような治癒作用があるかを明確に知覚すべきである。そして、患者が確実に回復するように、明確に定義された基本原則に則って、様々の薬の治癒作用に関して知覚していることを、患者について疑いなく異常であると発見したことへ適用する方法を知っているべきである。さらに、最も適切な特定の薬の妥当性に関しても、様々な薬の治癒作用に関して知覚していることを、薬の作用形態に則って、医師が前にしている患者に適応する方法を知っているべきである。また薬に関して厳格な製法と必要な量に関しても、そして投薬を反復する適切な期間に関しても、知っているべきである。そして、最後に、それぞれの臨床においてどのようなことが回復への障害となるかについて知っており、永久的な治癒を達成するために、それぞれの障害を消去する方法を認知しているべきである。これらの条件を満たすことが出来れば、医師は正しい判断に基づいて論理的に治療を施す方法を理解しており、ヒーリング・アートの真の実践家であると言える。』(ケントの『ホメオパシー医学哲学講義』より引用)

その意味を理解してみよう。「もしホメオパスが、何が癒されるべきかについてはっきりと知覚し、はっきりと理解していれば・・・」これは何を意味しているのだろうか?病は治癒される必要がある。ハーネマンはアフォリズムの第1章と第2章に記述している。

『医師の高潔にして唯一の使命は、病気の人を健康な状態へと回復させ、まさに文字どおり治癒することにある。』

『最も理想的な治癒とは、迅速な、穏やかで永久的な健康の回復、あるいは病気の完全なる消滅と解決であり、最短時間で、最も信頼出来、最も害のない方法で行われ、容易に理解出来る基本原理に則ったものである。』

治癒は病の除去である。だから病は治癒されなければいけない。それではなぜ彼はアフォリズム第3章に「病において治癒されるのは何なのか?」と述べているのだろうか。

私は「in:〜において」という表現がとても重要だと考えている。「in disease 病において」何が治癒されるのかを知っている人が成功する。私はこの点を何度も何度も強調している。何故ならば強調される必要があるからだ。もし私達が病において何が治癒されるべきかの明確な考えを持っていたなら治癒させることができるだろう。持っていなければ、治癒させることはできない。

少しずつこの問題の答えを実践して見つけるために論理を使っていこう。

まず初めに アフォリズム第116章:

「いくつかの症状はレメディ投与によって比較的頻繁に、すなわちたくさんの人々に現れる。その他の症状はまれに、あるいは少人数に現れる。またいくつかの症状は極めて少人数の健康人にしか現れない。」

これはプルーヴィングについて述べている。レメディがプルーヴィングされるとき、全てのプルーヴァーに共通のいくつかの症状が発現する。また、プルーヴァーの個々人(レベルで)のいくつかの症状も発現する。これは、100人のプルーヴァーにレメディを投与したとき、全てのプルーヴァーに共通のいくつかの症状が発現し、30〜40人に共通のいくつかの症状も発現し、ほんの個人単位のいくつかの症状も発現するということを意味する。

それでは、すべてのプルーヴァーが、共通の症状を発現するものだろうか? もし「Materia Medica Pura」を読んだなら、Bry.ブライオニアとRhus-t.ルス・トクスの紹介で、ハーネマンは、プルーヴァーが誰であろうと症状が何であろうと、Bry.ブライオニアは動作によって悪化し、Rhus-t.ルス・トクスは、それによって好転することを観察している。そこには、観察から得られた純然たるデータが載っている。


(精神状態 VS 精神症状)

このことは、全体的モダリティが、すべてのプルーバー(被験者)に共通していることを意味している。アフォリズム212において、我々は既に以下のことを読みとっている。我々は、あるひとつのレメディが、それぞれのレメディに特異性のあるすべてのプルーバーにおいて、ある精神状態を引き起こすということを。プルーバーが誰であれ、Acon.はその精神に暴力性を引き起こし、Stram.は恐怖を、そしてPuls.は涙もろさを引き起こすでしょう。ハーネマンは、Acon.は穏やかな人に投与されるべきではないと述べている。そして、レメディがすべてのプルーバーに共通したことを引き起こす2番目のものが、”精神状態”なのである。

この”精神状態”について、もう少し理解を深めてみよう。何故、ハーネマンは”精神症状”と表現しなかったのでしょうか? ”精神状態”と”精神症状”の間にはどのような違いがあるのでしょうか? アフォリズム211において、ハーネマンはこう述べている。あらゆる患者は、あるレメディが処方されるにふさわしいある精神状態を持っている。そして、ずっと後のアフォリズムで、ハーネマンは精神病の治療について述べている。彼によれば、精神病で現れる症状は、精神に影響を及ぼす偏った局所的な病気であるにすぎないということである。従って、それらはある症状群として存在し、この症状は精神症状ではあるけれども、重要なものではない。何故ならそれは、部分的症状であり、偏った局所の症状だからである。その症状は、精神病に属すと同時に精神状態にも属している。”精神状態”は誰の中にも存在し、あらゆる個々人の中にも存在する。その人がどんな病気を患っていようー湿疹であれ、喘息であれーと、彼は精神状態を持ち、そして、この精神状態からあなたは、レメディを選ばなければならないでしょう。

この間の違いについて、もう一歩踏み込んでみよう。子供では、非常に特徴的な精神症状が見られる。例えば、暗闇が怖くて、一人でいることを怖がるCalc-c.タイプの子供のケースを見てみたいと思うなら、我々は、子供において、その最も顕著なケースを見ることが出来るでしょう。もし、暗闇が怖くて、一人でいることを恐れることが、精神レベルにおけるある影響(病理)を現しているとするなら、その時は、その子供は、この世で最も重い病であるに違いありません。その一方で、死にそうになっているガン患者が、精神症状をあまり持っていないようであれば、彼は最も健康な人であるに違いありません。

つまり、精神症状を持っていることが、必ずしも精神が病んでいるというわけではないということについて、私は指し示そうとしているのです。精神とは、全ての病によって引き起こされ、そして同時に、すべてのプルーバーによっても引き起こされるひとつのある状態でもあるのです。ホメオパシー哲学講義の中で、ケントはあるCalc.タイプの子供が何年間も病理学的な異常を持たないままでいる子供を見出すことになるだろうと述べている。もし、この子を治療しないまま放置していたら、やがて病気になってしまうだろう。それは次のようなことを意味する。つまり、その最初のうちの症状では、精神のレベルにおいては病理として表現されないということである。それはまず最初に”ある状態”として現れ、そして、後で病理(身体の異常)として現れて来るのです。”状態”がまず最初に来て、そして、それは最後までずっと続くことでしょう。精神病はその階層では、最後に現れ、そしてまず最初に去って行くでしょう。

精神症状が去らない限り、人は癒されないという考えは間違っている。もし、我々が、その人は治癒の方向に向かってはいないと思うなら、それは間違っている。

自信がなくて湿疹のある一人の人が来たとしよう。彼は、湿疹は治ったが、まだ自信のないのはそのままだと言う。どう解釈したら良いだろうか?

自信のなさが、湿疹の先にあったのです。Lyc.的状態が、まず最初に来て、後から湿疹になったのである。丁度、まず最初に、健康で生命力に満ちていた”Calc.状態”の子供がいて、後にその子に病理が来たように。

では、プルービングでは、何が起きているのでしょうか? プルービングでは、レメディはまず最初にある存在の状態を引き起こす。それは精神レベルの状態であり、全体レベルの状態である。それから後に、個々の罹病性に対応して様々な器官に症状を引き起こすのである。

(疾患は、まず最初はセントラル・ディスターバンス:中心的乱れ に、後で部分に向かう)

まず最初に中心が捉えられなければなりません。これが病気の法則です。全体の疾患なくして部分の疾患があるはずはありません。中心的乱れがなくて器官の障害があるはずもないのです。

我々の薬(レメディ)はポーテンタイズされている。つまり、その中に物質的なものは何もないということであり、生理学的効果はあり得ない。Dig.ジギタリスは、生理学的には心臓に効果がありますが、ホメオパシーでは、効果はないのです。ホメオパシーでポーテンタイズされたDig.ジギタリスは動的作用因子となるのである。最初に精神と全体レベルのセントラル・ディスターバンス中心障害に作用し、その後、心臓の問題があるなら、そこに影響を与えることになる。もし、その人が、前立腺に罹病性がある時は前立腺に影響を与え、精神に罹病性がある時は精神に影響を与える。Dig.ジギタリスは、もはや単なる心臓レメディではない。

ケントは、それは前立腺のベストレメディと述べている。他の誰かは肝臓と黄疸に良いレメディと述べ、また違う誰かは「空腹からの目眩にDig.」と述べている。Dig.は目眩でもなく、心臓でもなく、肝臓でも肺でも、脾臓でもない。ある動的な乱れである。それが、すべてのプルーバーに引き起こしているものである。


(ポーテンタイズされたレメディは動的で全体的な影響のみを与え、部分には影響しない)

”局所的レメディ”という言葉を、ポーテンタイズされたレメディに用いるのは間違っている。ポーテンタイズされた時、局所レメディはあり得ないのである。オルガノンにも明記されているが、レメディは、動的影響のみを持っているのである。ポーテンタイズされたレメディは動的影響のみを持っている。生理学的・病理学的効果及び臓器に対する効果はないのである。唯一局所的効果があるとすれば、それは舌で甘みを感じることか、鼻でアルコールの匂いを感じるかくらいである。

さて、それではホメオパシーのレメディの局所的親和性とは何でしょうか?それが作用する平面とはどこでしょうか?このポイントを明確に理解されなければなりません。


(プルーバーの罹病性に対応した特定部分症状ーゆえに不完全)

よくプルービングされたレメディをもっとよくプルービングしたら、もっと多くの詳細が分かるだろう。がしかし、全体的なことに関してはこれ以上多くのことは得られないであろう。そして、いくら探してみてもその全ての特定部分症状も見つけることは出来ないだろう。Kali-i.は白斑傾向を持った人のためのレメディとしてプルービングもされなかったし、投与されもしなかった。だからこそ、その症状では見逃してしまうだろう。しかし、外で運動したいと切望すること。左右対称性に出る症状。おしゃべりで冗談好き。という精神状態は、すべてのプルーバーに現れたのである。

ゆえに、もし、あるレメディが、明らかに精神・全体的なことを引き起こすのならば、特定の部位にも同じようなことを引き起こす(部分器官への影響)ことになるであろう。しかし、もしあるレメディが部分的に何かを引き起こしたとしても、それが精神的・全体的に同じように影響を与えることとあなたは類推出来るだろうか?それは無理ですね。何故なら、可能性はあるにせよ、それで全体的な面まで影響を引き起こすことは出来なかった。このことが、こういうふうに言える理由である。つまり、精神と全体をカバーするレメディは、精神と全体をカバーせずに特定部分をカバーするレメディよりもはるかに治癒の可能性を持っているということである。

まず最初に作用するのは、セントラル・ディスターバンス:中心的乱れにである。そして、次にそこから先に進み、より罹病性のある器官に作用する。そして、患者がより罹病性を多く持つ部位ほどより多くの問題を起こすことになる。がしかし、個々の器官に対してもそれは中心的障害が持っている手続き(独特の作用のタイプ)に準じて作用するのである。

例えば、もしある人が、胃炎に罹りやすかったとして、あなたが彼にArs.を試すとするなら、Ars.はその人に全体的症状を引き起こし、胃では暖かさで改善し得るような質の焼けるような痛みを引き起こさせるであろう。もし同じプルーバーにPhos.を試したなら、冷たい水で改善し得るような質の焼けるような胃の痛みが出るだろう。

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<NO.11 第9章 中心的乱れ:後半 P.67〜:050626/更新日050725>

「モダリティは中心的乱れを表現している」

さて、モダリティは、中心的乱れを表現しているのだろうか、それとも病理を表現しているのだろうか? その人固有のモダリティは、誰が犯人なのか?何がその原因なのかを差し示すだろう。Ars.なのか、あるいはPhos.なのか・・。

ここでひとつ考えてみましょう。
あなたの家は泥棒が入りやすく、実際、入られたと考えてみましょう。この情報だけで、その犯人の名前は分かるだろうか?・・・分かりませんね。その泥棒行為が如何にして為されたかによって、このトラブルを起こした中心人物の特性を知ることが出来るのである。つまり”病理名”というものは、単に個人的傾向を指し示すことしか出来ないのである。

さて、病において何が癒されるべきであろうか?中心的乱れが癒されるべきであり、病理ではない。これが解決の鍵である。

私は、病をマフィアに例えるのが好きである。マフィアの組織は(私の思い込みかも知れませんが)、あるルールと原理によって治められている。マフィアの第一ルールは、たった一人のドンだけが中心を支配することである。ドンが中心を支配しなければ、周辺の隅々まで、その力を及ぼすことは出来ないのである。この逆は成り立たない。第2番目のドンが支配することはないのである。そこにはたった一人のドンがいて、中心をコントロールしなければならず、さもなければ、密輸や闇取引が出来ないのである。

この中心的な乱れとは、前章でP-N-E-Iの乱れとして指摘したことである。つまり、一旦中心的乱れが癒されたら、すなわちP-N-E-Iの乱れが癒されたら、病理的悪影響は自動的に消え去るわけである。

同じように、もしあなたがマフィアのドンを取り除いたとしたら、あらゆる密輸や他の活動は自動的に止まるのである。部分的に密輸をやめさせようとしたところで、何も変わらないのである。麻薬の取引を止めさせようとしたら、ある時期はなくなるかも知れないが、しばらくすると元に戻ってしまうだろう。しかし、ドンを突き止めて、彼の頭を仕留めれば、すべてはストップするであろう。

あなたが、部分的症状を部分的症状として扱っている限り、うまくはいかないだろう。あなたがひとつのレメディの中心的な流れを掴み、患者さんの中心的な流れを掴み、その人のP-N-E-Iの乱れを掴んだ瞬間、すべてが明白になることだろう。

明白になるもうひとつのことは、ただひとつのP-N-E-Iの乱れがあるが故に、この4つのシステム全ては、あるひとつの同じレメディの状態を指し示すに違いない。ということである。

それは、もしある精神状態(P)を持つ人がいたとしても、ただそれだけでは処方は出来ないということである。あなたは、残りの”N-E-I”においても、その付随症状を見出すに違いありません。そしてもしあなたが神経症状(N)を掴んでいたとしても、他のレベルー即ちP精神-E内分泌-I免疫システムーを掴んでいなければ、それだけでは処方できないのである。


「ケントの述べる”その疾病に特徴的ではない症状群”について」

一旦、あなたがこれらのことを理解したとするとホメオパシーにおける最も致命的な混乱と議論となって来たものの内の3つの問題点が消え去るであろう。その第一番目が、ケントが言うところの症状の評価に関することである。彼はこう述べている。
症状は2つの欄に分けて書きなさい。片方には、その病理に一般的に見られることを書き、もう一方にはその病理には一般的に当てはまらないことを書きなさい。ケントは、これらを”その疾病に特徴的な一般症状群”及び”その疾病に特徴的ではない症状群”と呼んだ。後者の方が重要である。何故だろうか?・・と言うのは、後者の方が、中心的乱れを表現しているからである。それが彼が言おうとしたことである。

これまで私は述べてきた。中心的乱れを癒しなさいと。その意義とは、部分的症状においては、その病理を表現していないすべての症状こそが、中心的乱れに関係しているに違いないからである。


「ボガーの述べる”全体傾向化”」

ボガーは何と言っただろうか?彼はこう言った。”その人を特徴づけるあらゆる症状(特徴とは普通ではないことを意味するが)、または、その人を特徴づけるあらゆるモダリティ・・それらを全体(傾向)化して描きなさい。部分的にではなく、全体的にである。”

前に引用したケースの中で、Bry.の特質はそれが特徴的ではあったが部分的モダリティではなかった。我々はそれを全体(傾向)化して、全体的モダリティとしてとらえることが出来る。即ち”ほんのわずかな動きで悪化”というモダリティである。そしてそれによってBry.を投与出来たのである。これはボガーのアプローチである。彼は全体(傾向)化したのである。彼の言おうとするところはこういうことである。つまり、部分的特徴はもはや部分的症状には留まらない。それは中心的乱れの症状なのである。我々はこれらを我々のガイドとして受けとめたい。


「ベニングハウゼンの付随症状について」

ベニングハウゼンは”付随症状”という言葉を使う。彼は何を言おうとしているのであろうか?彼は次のようなことを言おうとしているのである。
つまり、もしあなたがある特別な精神状態を見出したとしたら、他の部位においての付随症状を見ることなしに処方してはならない。たった一つの乱れがあるのであり、2つも乱れがあるのではない。ある一つの精神状態(乱れ)があるとやむを得ず他の多くの部位でも付随症状をもたらす事になるのである。(一人の同じドンがあらゆるところまで支配し、そしてあらゆるところにおいても、我々はドン以外の何者の影響も見出せないのである)これがベニングハウゼンの付随症状の原理の基本である。

この付随症状とトータリティとの関係は、モダリティと症状との関係と同じことである。それはレメディを選別化する要因になるのである。つまり、ある症状=”関節の痛み”において、動く事によって・・・「改善する」または「悪化する」モダリティの差が出て来た時、それに応じて異なったレメディになるのである。ある一つの部位において共通の症状故に2つまたはそれ以上のレメディの選定で迷う際、つまりそれらが似ていて選べない時、他の部位においての付随症状を見ることでレメディ選定をクリアにするであろう。


「CASE」

ここに23歳の男性の例がある。彼はこう言った。「先生、私朝にお茶を飲んでいま したら、手からコップが落ちるのです」これが彼の主訴だった。私はこう尋ねた。
ー「それはどんなふうに落ちますか? あなたがものを落としますか?またあなたは脱力感や手のもつれを感じますか?」

彼はこう答えた。
ー「いいえ先生。実際起こったことというのは、私がそのコップを握っている時に、私 の手が痙攣してそれが落ちるのです。」
ー「これはあなたがお茶を飲む時にはいつも起こるのですか?」
ー「いえいえ。起床後の朝にだけ起こります。」
ー「これは毎朝起こりますか?」そして彼は言った。
ー「いいえ先生。それは私がその前の晩に充分に眠ることが出来なかった時に限り起こるのです。私の平均的な就寝時間は午後11時半です。しかしもし午前の1時や2時までに寝られなかった時、そして次の朝仕事に行く為に通常時間に起床しなければならないとする、そのような日には、私は目を覚まし、そしてコップは手がぴくぴくしてから落ちることしょう。それは完全に100%起こります。」

私は尋ねた。
「痙攣はどれくらい長く続きますか?」
「1時間だけ続きます。そしてそれから消失します。」
彼はボンベイにいる有名な神経学者の所に行った事があった。ある神経学者は本当に理解出来なかったと言った。
神経学者はこの状況を「ミオクローヌス(筋間代性筋痙攣)」であると言った。筋間代の痙攣、そして彼はプラスチックのコップを使用するようにアドバイスしたのだ!

それでは、レメディーは何だろうか?彼のケースの中に、他に何も重要な症状はなかったと仮定してみよう。この情報が私をレメディーへと導いた。私は自問してみた。「もし睡眠不足からの悪化だとして、何故それはきっちりと一時間持続するのだろうか?何が説明出来るのだろうか?」

前日の晩あなたは眠れなかった、そして同じように規則正しい時間で朝起きたときに何が起こったのか、あなたはどんな状態だったのか?あなたはまだ眠たかったか?どれくらい?約1時間。その1時間というのはあなたが眠い時間なのである。そしてその後、決まりきった日課をこなし、そして眼が覚めてくる。しかし、その1時間あなたはふらふらしていて完全には目が覚めていない、そしてこのふらふらする時間というのが彼が痙攣を起こす時間なのである。この症状は正確に言うと「睡眠が不足すると悪化」というのではなかった。しかし彼は半分眠っている時に悪化していた。完全に眠たいのでも完全に起きているのでもない。この時間において彼の神経システムは最も感受性が高くそして痙攣を生じさせるのだ。

私はもう一つの質問によってこの症状を確認した。私は彼に聞いた。「あなたが、いつもよりももっと早くに、午前4時とか5時とかに起きなければならなかったとして、もし、あなたが誰かを空港であるとか電車のターミナルであるとかで出迎えなければならないとして、そして彼を待ちながらそこに座っていて、この時間あなたは眠気を感じているけれどもあなたは眠れないとしたら(またそれは半分寝ているということ)この時にもまた痙攣が起こるでしょうか?」彼は即座に答えた。
「はい先生。どうして知っていたのですか?私はそういう時にも痙攣します。それは朝以外で私に痙攣が起こる唯一の時間です。それは、私が長い時間起きていなければならなくて眠気を感じている、しかし眠れないという時です。その時私は痙攣します。」

今やそれは明らかだった。彼は半分眠たいという時に悪化をしていた。私は「痙攣、半分眠たい時に」を採用しなかった。私はこの症状を全体傾向化した-Boger の全体化-全体的なモダリティー、「半分眠っているときに悪化」へと。これはKentのレパートリーの中にはない。Phatakのレパートリーにある。この症状に対して4つのレメディーあげられる。その中からいくつかのその他の症状をベースにして一つ選んだ。それはNitricum acidumだったのである。

このモダリティーは全体化された、何故ならそれはとても特徴的だったからである。それは半分眠いという時に悪化をする彼の「痙攣」だったのだ。それは彼の中心的乱れ、即ち半分眠いという時に悪化する、彼の特徴的な神経の感受性のモダリティーだった。

そうして、あなたは、局所的な病というのはない、そして薬というのは局所的なモダリティーからでさえも全体的な効果を生じさせるということを、いったん理解する。(そうすれば)あなたはを全体傾向化出来、ボガーのアプローチ使う事が出来る。

ファタックのレパートリーはボガーのアプローチがべースになっている。ボガーの“Synoptic Key”もまたこのアプローチをベースにしてきたし、そしてベニングハウゼンの“Terapeutic Pocket Book”も同様である。ボガーの“Boenninghausen’s Characteristics and Repertory”はこの方法、つまり局所的な特質の全体傾向化によって使用されなければならない。部分的な特質は部分的症状ではないが、それらはその中心的乱れに属している。これは哲学である。癒されるべきは、中心的乱れなのである。


要約

要約すると、我々はどんなケースででもその中心的乱れに焦点をあてなければならない。それは全ての局所的な問題の背後にある要因である。それは精神的状態と全体的症状から突き止められるのである。局所的な特異性もまた、その中心的乱れの特性を表現しており、それ故に全体傾向化され得るのである。(ボガーの方法)。 中心的乱れは全身に渡って同じように存在しているので、ある一つの部位を越えて付随症状を見出だすことが出来る。(ベニングハウゼンの方法)。 それを突き止める最も容易な方法は(特に身体病理を伴う病気の場合)精神状態を理解することである。(ケントの方法)  次の章ではこの最後の方法に焦点をあて、患者のマインドへと達する方法を見出だしてみよう。


(第9章終わり)

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<NO.12 第10章 症状のダイナミズム/更新日051116>

第10章 症状のダイナミズム

ハーネマンのオーガノンからの次の引用文は、人間の有機生命体の中で病が働きかけている様々なレベルについて、そして病の性質やその治療に関する理解に至る上でこれらのレベルがどれくらいの相対的な重要度を持つかということについて、豊かな知見を与えてくれている。

201章

『明らかなことであるが、人のバイタルフォースは、自身の力で克服することのできない慢性の疾患に妨げられると、どこか外側の部分に局所の疾患を生じさせるというプランを本能的に選択する。そして、この目的のためだけにこのような人の生命にとって不可欠ではない部分を病んだ状態にし続け、それによって内部の病を沈黙させる。そうしなければ生命にとって重要な器官が破壊され(そして患者の生命が奪われ)てしまうであろう。そうすることで、いわば内部の病を代償性の局所の病へと変換させ、まるで病を向こう側へと引きよせているようなことをしているわけである。こうして、局所の疾患の存在は、実質的には病を治癒させることも減じることもできないのだけれど、しばらくのあいだ病を沈黙させる。しかしながら、局所の疾患は全体の病の一部分以上のなにかということはありえず、生命体のバイタルフォースによってあるひとつの方向へ全てが増強された状態であり、内部の病を和らげるために身体の危険性の少ない(外部の)部分へ変換させられたものである。しかし、よく言われるように、内部の病を沈黙させるこういった局所の症状を起こすことで、全体の疾患を治癒したり減じたりする方へとバイタルフォースによって進められるどころか、それとは逆に、そういった事をものともせずに内部の病は徐々に増強し続けていく。そして増強した内部の病に対する代替品になり得るようにそしてそれによって内部の病をなお抑えつけておけるように、「自然の持つ働き」は常にもっともっと局所の症状を拡大し悪化させるように強いられていく。古くからの潰瘍は内部のPsoraが治癒されない限り悪化していき、(硬性)下疳はSyphilisが治癒されないままであれば拡大し、イチジク状のイボはSyocosisが治癒されないうちは増大し成長し、こうして、全体の内部の病が時間の経過とともに増強し続けていくにつれて後者すなわち真の病はますます治癒しにくくなってしまう。』

205章(脚注)

『たとえば、いわゆる口唇や顔の癌(高度に進行したPsoraの産物、Syphilisと関連していることもしばしばある)をFrere Cosmeの砒素剤レメディーによって局所的に根絶したりすることを私が勧めることはあり得ない。なぜなら、それがひどく痛みを伴い、またしばしば失敗に終わるということもあるが、それだけでなく、もっと大きな理由はもしこういった動的なレメディーによって実際に局所的に悪性の潰瘍を患部から除去することに成功したとしても、それによって基礎にある病がわずかでも減じられるということは無いのであるし、それゆえに保たれたままのバイタルフォースは必然的に巨大な内部の病の作用領域をどこかもっと重要な部分(転移のケースで実際に生じているような)へと移し替え、そしてその結果として失明、難聴、狂気、窒息性喘息、水腫、卒中などといったものが生じるからである。

しかし、結局のところ、潰瘍がまだそれほど大きなサイズに達していなかったケースやバイタルフォースがまた非常にエネルギッシュである場合には、非素材レメディーによる悪性の潰瘍から局所をあいまいに解き放つことはただうまくいくことだろう。しかし、同時にその状態というのは、生命体全体の元々の病を内部的に完全に治癒させることも十分に可能な状態でもあるのである。

内在するマヤズムの治癒が出来ていないのであるならば、結果は同じである。顔や気管支に出来たガンをメスで取り去っただけだとか、被嚢された腫瘍が、摘出されたとしても、何かもっと悪いことが結果として起こってくるか、あるいは、死期を早めることになるだろう。こうしたことは、これまで何度も何度も繰り返されてきた。しかし、アロパシーの学校では、いかなる新しいケースであろうと以前と同じ方法が、盲目的になされ、相変わらずひどい結果になっている。』

“オーガノン前書き”脚注の(Boericke第6版)

ページ55

“・・・そして、動的影響を受けた神経の力は、物質的産物(病巣部)として現れると思われる。”

ページ56

“救いようがないほど(大怪我など)の生体の一部位の破壊と犠牲を払うことでしか自然の力が急性症状の患者を救うことが出来ないこともある。しかし、もし結果として死に至ることがないのであれば、実にゆっくりと完全ではないにせよ、再び生命の調和は回復され得るのである。”

ページ62

“(恐らくはまだ新しい)局所的症状に対する影響が、より穏やかな性質のものであったとしたならば、それに対して間違った部分的・表面的なホメオパシーの使い方であってもその部位から症状は追い出されることになる。内的な病の治癒のために現れた自然が作った皮膚での局所的症状は、もっと危険な内的慢性疾患を新たに引き起こす。そして、その局所症状のリバウンドによって、局所症状はV.F.に対して、他のもっと重要な部位へ病的なアクションを転移させて行くのである。”

ページ63

“V.F.は内部の病気の除去の為に時々無痛性の外部の腺の増大を起こす”

ページ64

“アロパシーでは、鉛や亜鉛の酸化物によって脚の潰瘍の分泌を乾燥させる等々、生命力の内部の非常な苦痛を和らげるためにどれほどか悲惨な結果の何千もの症例の経験をうちたててきた。”

ページ64

“もとからある慢性病を和らげるために、V.F.の本質の力が置き去りにされている時、知性的でないV.F.によって、すべての局所の症状、排泄や見かけ上生じる派生的影響はその状態のまま続く”


上記で引用したハーネマンのV.F.のメカニズムの見解は次のように明らかである。

―V.F.の第1番目の役割は、人を健康な状態に維持することである。

―病的作用因(例えば、伝染病・ドラッグや強烈な感情)に見舞われた時、そしてそれがその人に罹病性がある時、まず最初に身体全体での反応が見られる。即ち、身体全体の機能的乱れの結果として様々なことが起こって来る。(例えば発熱、衰弱、食欲減退、喉の渇き、イライラなど)こうした全体的・精神的症状は、病的因子の性質に応じて変化するだろう。それは、P-N-E-Iシステムの機能的症状である。このシステムが最初に狂うのである。

―V.F.はできるだけ障害の状態をgeneral (全体)の部分で限定するように保とうとする。 器官の秩序のなかで病理学上の変化を生じることを許さない。

―身体の耐えられるレベル(たとえば身体が耐えられる限界を超えるほど気温が非常に高い時)を超えるほど障害が激しい場合、局所の器官にその障害の現象を生じさせることを許す。

―身体が耐えられるgeneral(全体)の乱れのレベルは、身体全体の状態と重要な臓器の状態次第で決まる。

器官の状態が常にとてもよくて多くの身体的機能の障害に耐えることができる子供のケース(たとえば高熱に耐えることができる心臓)で、そのV.F.は強い身体障害にも耐える余裕があり、局所的症状にまでそらす必要がない。強烈な身体全体の乱れはあるが、ほとんど局所の病理がないというケースはしばしば子供に見られる。

一番良い精神的・身体全体的症状―恐れ、切望、嫌悪感のようなものは子供から聞き出すことができる。器官が虚弱でもろくなればなるほど、強烈な全体的な乱れに耐えうる彼らの受け入れ容量は、減って行く。従って老人では、V.F.は最も低いレベルで全体の乱れに対して、健康を維持しなければならない。それは、多数の病理にそらして行くことによって、適応していると言える。精神的・全体的症状がほとんどなく、途方もなく多くの病理変化があるというケースが、年取った人の中の多数に見られるのは、そういう理由からである。

―この局所への乱れで移動するプロセスは、また、乱れの継く期間で決まるといえる。ある一定範囲の乱れの強さには耐えられるが、長期間には耐えられない。

―そういう状況に達した時(長期間の乱れ)には、V.F.は、乱れが局所に達することを許す。但し、それは可能な限り重要ではない部分にである。

―局所を乱されることを許す時でさえ、V.F.はその部分のすべてを乱れに引き渡したりはしない。これの意味するところは、病理を最小レベルに保とうとしているのである。

―ある局所部分にdisturbance(障害)が広がることを許した場合, それはある期間、最も大切な中心における障害のレベルを減少させるように働く。結果として、生命体全体を良い状態に保つために器官を犠牲にするのである。

これらdynamicsの全体は私にとって 犯罪者(マフィアのボス)の不正取引をしている地域の活動(dynamics)にとてもよく似ていると思う。最初、マフィアは全体的乱れを起こすことが出来る。政府はある地区のあらゆる試みを阻止しようとするだろう。しかしマフィアのボスによる全体的な乱れがその地区にとって耐え難いものとなった時には、政府はあまり重要でないことなら許しておく。彼らの統治下によりおきることをなるべく小さくなるようにしようとしながら。

他の例を挙げると、周辺の生体構成(土地)に損害を与えるので貯水池に水を貯め水害を防ぐダムがある。水圧がダムの許容を超えるようになり、決壊する恐れが出てくる。ダム管理所は住宅地でない土地(野山)にいくらか水を流すであろう。このように水を流した地区を犠牲にすることで、州全体を守っているのである。

もっと近いのはレストランの入り口でのごろつきの現場である。彼はオーナーに口喧嘩をふっかける。喧嘩はエスカレートする。取っ組み合いがレストランの価値にダメージがあるまでに迫ってくるとオーナーはごろつきに外に出るように言い、双方の格闘はレストランの価値のある物品のダメージを最小限にとどまらせる。

―いかなる時も、病の全体的な力というものは、中心的な乱れと局所の臓器の疾患の乱れ(機能的・病理的)との総和である。

―もし症気の力の強さがとても高い時(=水圧がかなり強い時)か身体状態がの病に耐えられない時(=ダムが劣化してきている時)、あるいは乱れが局所へむかっている時(=ダム管理所によって、その地区から水をわきにそらされようとする時)―これら3つの状況下である時、V.F.は乱れ:disturbanceを他のより生命力のある部分へ広がって行くことを許すのである。

―どの部分が乱れを受けるかは次の2つの要因によって決まる:

1.全体的な乱れと親和性を持っている部分。例えば疝痛や痙攣痛を引き起こすドラッグは、自然に腸や尿管に影響を及ぼすであろう。

2.個人に遺伝的に引き継がれた、または後天的に獲得した臓器の虚弱さ。例えば、Brionia によって引き起こされる乱れ:disturbance は「胸膜」に親和性がある。けれども、甲状腺の問題に強く関係した疾患傾向のある人はBrioniaのmodalities(様態)を伴いながらも甲状腺疾患に発展してゆくだろう。

―V.F.が局所の乱れを容認した時、その乱れ:disturbanceは、その局所が持つ虚弱さや傾向に沿って影響を与えるだろう。しかし、そうであったとしても、乱れ:disturbanceは、それ独特の特徴を示すことになる。

それを例えて言うならば、マフィアのボスがある地域で犯罪を犯した時、その犯罪のタイプは彼自身のもつ性格によるだけでなく、その地区の持つ傾向とも関わるのである。ボスがドラックの取引をしたいと思うかも知れないが、この地区では密輸入の強い傾向がある場合には、ボスがするのは、これにある。しかしながらその密輸のやり方は、ボス独特のやり口になるだろう。

―もし病がさらに発展すると、ある病理の段階に達する。それは精神又は神経又は内分泌又は免疫システム系のいずれか複数部分において、V.F.が受け入れることを認めたところに現れるのである。これらの最も重要な部分において現れて来るものは、単なる機能的な乱れではなく、目に見える病理としてである。

―V.F.と病の力の間の闘いのレベルは、その人の生命力の強さ加減を教えてくれる。
もし、強い中心の乱れがあるのに、病理は少ししか見あたらなければ、生命力のレベルは高い。逆に中心の乱れが弱いのに、とても深刻な病理が見られるとするならば、生命力のレベルは低いということであり、 こういうケースでの予後は、慎重に見なければならない。

―以上の考察から我々は2つの異なったレベルの病があると見なすことができる;
1)中心あるいは全体、そして 2)周辺部あるいは局部。

―私達が意味するところの中心の乱れcentral disturbance によってP-N-E-Iシステムの機能に変化が起きる。これらの変化は、精神的な症状として、あるいは全体的な症状として、あるいは局部における固有の変化として現れて来る。その変化は中心の乱れに相応して、消滅したり、あるいは中心の乱れの変化と共に違う形になったりする。またそれらは、セントラル・モダリティによって、直接影響を受けたりするかも知れないであろうし、とても特徴的な症状として現れることもあるであろう。
中心の乱れが起こって来るこれらの症状は、付随症状となって病理として現れるであろう。(例えば、湿疹を伴う陽光からの頭痛、あるいは頭痛を伴う吐き気など)従って、中心的乱れは、局部の病理よりずっと重要なのである。これがベニング・ハウゼンが、付随症状を強調した理由である。

―局所の病理は、一般共通的症状を含んでいるのは明らかである。マフィアのボスが密輸に関わっている時、その活動の特徴的な”やり口”は、密輸に関わっている者なら誰にでも共通するような一般的な”やり口”となるであろう。例えば、ここに虚血性心疾患の人がいるとする。尽力から胸に痛みが出たとしてもそれはその病理の一般共通的症状であり、中心の乱れの特質を示してはいないであろう。

―その中心の乱れが、局部の病理に変換されたものであるなら、その局部症状はある範囲までは、中心の乱れと同調するであろうことも、また明白なことである。皆さんはある局部に固有なものを見出すであろう。それが一般共通的な病理ではなく、その中心の乱れにマッチしたいくつかのレメディによってカバーされるものである。ある一人の特殊な患者がいる。彼は虚血性心疾患を患い、胸に痛みを訴え、その痛みが運動によって悪化し、休むことで軽快するとする。ここまでは一般共通的症状である。しかし、ある特徴、即ち、暖かさで好転することは、この虚血性心疾患では特殊なことであり、これは中心の乱れを現すものである。故にこれが治癒レメディを差し示しているに違いないのである。こうして、我々はここにボガーの叡智を見て取ることが出来るのである。あらゆる特殊な モダリティmodalitiesと センセイションsensation は、その人の全体的な表現として捉えられるということである。

―このシンプルな説明は、臨床においてとても役に立つ。しかし、分別ある読者諸氏は、ここに一つの欠陥を見出すであろう。その欠陥とは、バイタル・フォースと病の力との関係は、政府とマフィアとの関係のように2つの分離した存在であるという点においてである。我々のこれまでの理解においては、病というものはある分離した存在ではなく、V.F.の乱れであるにすぎないということであった。ハーネマンはこのことに充分気づいていた。V.F.は、生命がきちんと機能するように守り、その有機体全体の目的を果たす意図も持っている。V.F.が乱されたとき、V.F.自体の乱れが、より重大な器官に影響を及ぼさないようにするのである。(生命と生命の目的の両方にとって重要と見されるような)そして出来うる限り長い間助けようと試みる。従って、我々が「V.F.は、最も影響が少ない部位に病を維持させるようとする」と表現する時、実際、我々は次のことを同じ意味で言っているのである。即ち、V.F.はそれ自体が乱れることで重要な器官に影響が及ぶことを防いでいるのであると・・・。例えて言うと、ある混乱した政府において、その政府が可能な限りの範囲で、政府自体が乱れることによって、軍隊や食料供給のような重大な組織に影響が及ぶことを防ごうとするのに似ている。

「治療におけるdynamics」

1.
もし、中心の乱れcentral disturbanceをカバーするレメディーが与えられたなら、病理は(それはただ中心の乱れの局在化以外の何ものでもないが) 自動的に和らげられ、そして、必然的結果として消滅して行くであろう。

2.
もし、レメディーが局部の症状にのみ類似しているなら、それは、一時的に症状が緩和されるだけであろう。たとえばある患者の中心の乱れがCalcarea carbonica であり、彼の局所的不調が関節にあり、それがRhus-tox(これは多くの関節痛の症例のかなり普通のモダリティー)の モダリティmodalitiesを示すとしたら、Rhus-tox.は一時的に症状を緩和するように働くだけであろう。

3.
局所の病理は、中心の乱れcentral disturbanceのただの吐き出し口にすぎないだけだから、それを取り去ること(あまりに機能的で未熟なホメオパシーやアロパシーや手術によって)は、自然の法則に反している。そうすることは、出て来た中心の乱れを再び中心に押し戻してしまうことになるであろう。その影響は一時的なものであり、V.F.は再び吐き出し口に向かって奮闘努力することになるだろう。長期に渡って、この押し戻しを続けた結果として、生命力の衰弱となって行くであろう。そして、こうすることで乱れはより重大な器官へと移動させられることになる。このプロセスを抑圧と呼ぶ。もしレメディが局部の症状だけで選ばれ、中心の乱れによって選ばれたものでないなら、たとえホメオパシー薬であっても抑圧が起きることになる。

4.
上記の考えの中で、最も重要な示唆の一つは、もし我々が中心の乱れcentral disturbanceを上手に扱うならば、V.F.が他のすべての部分を統御することになるであろう。病とは中心の乱れである。我々のレメディは、常にこの中心の乱れに照準を定めるべきである。もし、ある人が怪我をして、 Arn.の局部症状があるとするなら、生命力は容易くこの怪我を回復させるだろう。しかし、もし中心の症状があまりにも変化させられることで、Arn.を差し示さないのであれば、必ずしもArn.が投与される必要はない。

同じように、急性の状態の時でさえ(例えば、風邪や捻挫や気持ちの動転)、V.F.はその急性症状を回復させるだろう。我々は、その時における中心の乱れが何であるかを見て、それに類似したレメディを処方しさえすれば良い。急性であろうと慢性であろうとレメディの変化を指し示すただひとつものは、中心の変化なのである。即ち、別の言葉で言うなら、レメディを指し示すような変化のことであり、あるいは、特徴的症状のことである。例えば、慢性的にPuls.によく反応する一人の患者がいたとして、彼女が黄疸になったとする。我々はそこに依然としてPuls.を処方されるべき症状が存在するかどうかを検討しなければならない。もし彼女が、この黄疸の時でさえ以前と同じサイン、同じ精神状態、同じ全体症状、同じモダリティmodalitiesであるならば、レメディは同じになるだろう。彼女は黄疸としての一般共通的な症状も持っているかも知れない。しかし、その中心症状が前と同じものである限りは、我々はレメディを変えてはならないのである。

しかし、元々Puls.で良くなった人が、喉の渇きが強くなり、動作と会話への全体的な嫌悪感が出てきて、暖かな飲み物以外は口にする気がなくなり、 ちょっとした動きから肝臓に痛みを感じ右を下にして寝ると楽になるとする。こういう場合には、元のレメディからは一時的に取って代わっている。中心の乱れ全体が変化しているのである。それは精神状態の全体的な変化、 そして身体全体的な症状から分かることである。例え、急性の状況においてもそのような変化がある時のみ、処方の変化が必要とされるのである。

私が、しばしば好んで繰り返す言葉は、次のことである。

『どんな変化が起こっているのかを見極めることで、正しい処方も変化する』

(第10章終了)

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<NO.13 第11章 薬の何が治癒をもたらすのか?/更新日051116>

第11章 薬の何が治癒をもたらすのか?

この章では、実際、レメディが何をしているのか? そして治癒を可能にするものは一体何なのか?について理解していこうと思う。このことは、まだ多くは混乱したままである。そこで、私のセミナーの次のビデオケースを通して、この課題を明らかにしたい。読者諸氏は、この興味深いケースを考察して、そこから適切な教訓を得ることになるだろう。

「CASE」

これは、1歳半の女の子のウイルス性脳炎のケースであり、次のような病歴が分かった。 彼女が嘔吐と下痢(胃腸炎)を起した時、彼女は明らかに正常な状態であった。彼女は アロパシーの病院に入れられ、そこで血管内に静脈注射を打たれた。それから、彼女は微熱が出てきて、1度引きつけを起した。この引きつけ後に彼女は突如として昏睡に陥り、意識が不完全な状態になった。
小児科医はこう言った。この子が回復する見込みは絶望的だと。
私が彼女に会った時、彼女の意識は朦朧としていた。そして、かなりきつい刺激を与えた時だけ反応するだけだった。もし彼女をきつくつねったとしても、かすかにうめき声をもらし、その後、意識朦朧の状態に戻るだけだったろう。
彼女の体温は標準を下回り、華氏97度であった。彼女はありとあらゆるチューブを体中にぶら下げて我々のホメオパシー病院に運び込まれた。
私は静脈切開が処置されてしまったものと考えた。

私は、このどうしようもない状況に出会い、ひとつのレメディを選ばなければならなかった。これらのひどく少ない症状だけからである。他に何も特徴的な症状は得られなかった。私が選んだレメディは、「Hell.」であった。何故、私はこのレメディを選んだろうか?

「レメディの識別」

彼女について特徴的なのは、今何が存在するのか?ではなく、それがどのように始まったか?である。Acon.又はBell.においては、それは激しさを伴って始まる。Apis.では頭を枕に叩きつけながら、強烈な甲高い叫び声が見られるだろう。また一方、Op.では瞳孔が閉じて、いびきをかきながら深い昏睡状態になるだろう。

識別しておかねばならないもう一つのレメディがある。それは、Zinc.である。Zinc.とHell.は互いにとてもよく似ている。違いはただ1点。Zinc.の始まりにおいては、ものすごい神経の興奮状態が見られることである。その興奮とは何度も引きつけを起こし、それから痙攣・多動・ピクピクとした引きつり・昏睡になることもあるものである。
従って、まず最初は激しい神経の興奮状態があり、その後に、神経が疲弊して、不全麻痺・麻痺・人事不省・昏睡がやって来る。
Zinc.は、我々が受け持った患者と同じような症状の道筋を辿らない。もし、Zinc.のケースであるなら、患者がたとえ昏睡の状態においても我々は何度も痙攣と引きつけを目にすることになったであろう。

マテリア・メディカの講義の中で、ケントは、Hell.について次のように述べている。

『Hell.は脳・脊髄・全体的な神経システムと精神、特に急性の脳と脊髄とその粘膜における炎症症状において、そして精神病的症状において役立つ。ある特殊な類の痴愚や心身の麻酔状態もありうる。極端な状態は意識不明、大脳における鬱血と関連した深い昏迷状態である。この病気においては初期の段階ですら、Hell.はStram.やBell.で見られるような激しさや急性の譫妄状態は見られない。』

Hell.は、受動的で、受動性・昏迷性があり、”身体にまで及ぶ精神力の減退”がある。その人は能動的な面を持たず、受動的状態に入っている。それが、Hell.の特徴である。 それで、私は、Hell.1Mを1Dose与えたのである。さて、それで、何が起きたであろうか?続けて、ケントが述べていることを見てみよう。
『私は、徐々に進行する急性の、しかしかなり受動的な第1ステージが過ぎ去った後にそれを受け取るまでに何週間もの間、放っておかれたHell.を必要とする多くの子供達を見て来た。
それが与えられた瞬間、回復は始まるのである。しかし、その回復は即座にではなく、徐々にである。このゆっくりと進行した頑固な脳・脊髄の問題から派生した意識障害のケースにおいて、このレメディは実にゆっくりと作用するのである。時にはレメディが処方された翌日まで、あるいはその次の日の夜まで反応がないこともある。その夜には発汗・下痢・嘔吐が起きてくるが・・。その反応がないからと言って、邪魔されるべきものは何もないし、他のレメディが与えられるべきでもない。反応がないのは反応が起きてくるサインでもあるから、もしその子供が充分に回復できる力を持っているなら、間もなく回復するであろう。』

「ケース・マネジメント」

これは、ホメオパシー的な外科手術のようなものである。我々はその子供の状態が悪いと述べてきた。彼女の症状はとても悪い。それは脳にまで及んでいる。我々は彼女に薬を与えるであろう。我々は反応を求めている。彼女の生命力はあまりに弱っているためにその反応に耐えられないかも知れない。それが我々がとらねばならないリスクである。しかし、彼女は死んでしまうかも知れないのだ。これが回復のための唯一のチャンスである。

ケントはさらに言う。

『もし、嘔吐を止める力のあるレメディによって嘔吐が止まるのであれば、Hell.は無効化されるであろう。嘔吐又は下痢又は発汗はそのままにしておけば、1日のうちになくなるであろう。その子の体温は上がり、数日の内に意識は戻るだろう。ーそしてその後、一体何が起きるだろうか?麻痺した指や手や手足やあるいはいたるところでの痺れた皮膚のことをちょっと想像してみて欲しい。この麻痺した子供を目覚めさせる証拠になり得る最も自然なこととは何でしょうか?・・・つまり、うまくその子の手がピクピクと感じ始めるようなものであるが・・・彼の神経の状態が通常に戻るに従って、指はピクピクし始め、鼻や耳の感覚は戻り始め、そしてその子は泣き叫び、身体を前後に揺さぶり、ベッドの周りを転げ回るだろう。近くにいる者がやって来てこう言うであろう。「もし、あの子を助けるためには、何かをしてあげないと、医者を呼びにやらないと いけない」しかし、あなたがそのようにしたとすれば、あなたは24時間以内に死んだ赤ちゃんを見る事になるだろう。その子を良くしたいのならば、放っておくことである。次のようなことをしたとしたらあなたはこういうケースのマネジメントは出来ないだろう。つまり、あなたはその子の父親の言うことを聞いてはならない。そして彼に今何が起きようとしているかだけを伝えることである。そして母親の言うことを聞いてもならない。彼女が並はずれて賢い人でないならばであるが・・・。何故ならその子は彼女の子供であり、同情してしまうだろうし、子供の泣き声を聞いたら彼女もまた泣くであろう。そして気が動転して夫にこう求めるに違いない。あなたを外に追い出すように!・・と。しかし、もしあなたがあらかじめ父親を横に座らせ、何が起きているかを彼に話し、説明できたなら、彼にはそれがわかるであろう。そして彼にこう言わねばならない。もしこれを続けることを許されないなら、そしてレメディを投与することを妨げられるなら、あなたは子供を失うであろう と。』

これが、ケントが、Hell.を与えた後、何が起きたかに関する記述である。

私は、Hell.1Mを1ドース与えて24時間待ったが、何も変わらなかった。その子の状態はとても危機的だった。だから私は即座に反応を求めた。それで、私は、Hell.CMを与えた。10Mや50Mで待つことは出来なかった。

CMを与えてから1時間半以内に、彼女の体温は103°Fまで上昇した。そして105°Fまで上がった。これは彼女の最高体温であった。そしてそのままの状態で、最初の24時間が経った。しかし、その後全体の状態が静まった。彼女の痛みに対する反応はどんどん良くなり、そして彼女の意識レベルは高まって行った。この反応が一旦ストップしたので、我々は2日後にCMをリピートした。するとリピートして1時間以内に彼女は大声で叫び出した。そして12-14時間の間、叫び続けた。

体温が着実に上がり、72時間の間、同じ状態を維持した。この体温上昇の過程において彼女の意識レベルは改善し続けた。毎時間、我々は彼女に1ドースを与えた。その反応は前に比べ減って行ったが、やがて、全体的に静まった。体温の上下を繰り返した後に、彼女の意識レベルはほんの少し改善した。そして、Hell.に認められる症状が現れ始めたのである。

彼女は、親指を握り締め、両腕を広げ続けることを始めた。常にうめき声を上げ、頭を振っていた。

ケントレパートリーには、次のようなRubricsがある。

「ー頭部、動き、頭を振る、昼も夜も、うめき声を上げながら」(K.R.131)

彼女の目は一箇所に留まったままだった。
「ー目、ジッとする、昏睡の間において」(K.R.266)

そして、コンスタントに片手・片足が動いていた。これはHell.の典型的なキーノートである。
「ー四肢、動き、不随意に、片手片足が」(K.R.1033)

目だった特長は、もう片方が麻痺していることである。

それから彼女はおびただしい汗をかき始めた。特に頭と上唇の上にである。その汗はあまりに多いので、枕全体が濡れてしまった。彼女は便を洩らし始め、5〜6回緑っぽい便をした。排尿もかなり増えて行った。彼女が非常に落ち着きなく常に片方の足を動かし続けていることに、我々は気づいた。そして、もう一方の足はそのままじっとしていた。彼女の鼻孔は広がり、鼻翼の動きを伴って(鼻、広げられる、鼻孔/K.R.329)いた。我々が彼女の動かない方の足を掴んだ時、彼女は動く方の足で、蹴り放とうとした。動かない方の足は、ちゃんとは動かなかったが、引っ込めることは出来た。片方は著しく力が抜け、もう片方はとても勢いある動きをしていた。

我々は彼女の目があまり動かないことに気づいた。両目とも静止したままだった。まるで、彼女はじっと何かを見つめているかのように。彼女の視野には何も写っていなかった。もし彼女の近くに手をかざしても瞬きすらしなかった。音に対してもほとんど何の反応もなかった。今やこの状態はこれ以上改善することはなかった。そして彼女は全体的に意識は戻ったものの、ものを見ることも聞くことも出来なかった。ゆっくりと彼女の聴力は戻って来た。それで我々はそのままそっとしておいた。彼女は充分に意識を取り戻した。−耳は聞こえ、ものは食べられ、眠り、叫んだ。しかし、彼女の目は見えなかった。

「完全回復に対する疑問」

我々は、彼女を眼科医のところへやった。目の部位に何か悪いところがあるかどうかを確かめるために。しかし、眼科医はこう言った。目は完全に良い状態だと。皆は脳炎の影響がまだ残っているのだと考えた。彼女は残りの人生を目が見えないまま生きなければならない。私も同じような疑問を持った。一体、私は今何をするべきだろうか?レメディを変えるべきか?私は、NASHを読んだ。
”Hell.は感覚の鈍麻をもたらす。目は正常でも見ることは出来ず、耳が正常でも聞くことが出来ない。”

この一文を目にした時、ゾクゾクとした。私は指示に従って、Hell.を投与し続けた。反応が鈍い時はいつでも私は、もう1ドースを与えた。そして、このようにして彼女は回復したのである。

私は彼女の視力が回復しているかどうかを見るために2〜3日毎に病院に通った。2〜3週間の間、全く兆候はなかった。ところがある日、私はハンカチを取り出して(それは私が彼女の視力を確認するためしていたものだが)それを彼女の目の前で揺らしてみると 彼女はそれを掴もうとしたのである。彼女には何かがぼんやりと見えるのだった。ゆっくりと徐々に彼女の視力は回復していった。そして、完全に元の状態にまで回復したのである。

我々が、このケースから得たレッスンは何だろうか?Hell.の病理について考えてみよう。それはいかなる病理を生み出すのだろうか?ここにいくつかの可能性がある。

脳炎は脳の炎症である。そして髄膜炎は髄膜の炎症である。脳炎として知られている第3のものがある。それは他の器官がダメージを受けている時に起きるものである。例えば肝臓。肝不全のために脳に毒が溜まり、昏睡が起こるのである。それで、肝性脳症という症状が見られるわけである。

「Hell.は病理を生み出すのだろうか?」

さて、Hell.が生み出したものは、これらのいずれであろうか?それは脳炎を生み出したこのケースから明白なことである。つまりこういうことである。Hell.のアクションは髄膜にではなく、脳の中身に対してである。誰かは、それにApis.を提案するかも知れない。Apis.は興奮して叫び声をあげるような髄膜炎に有効である。従って、Apis.は髄膜炎のレメディであり、Hell.は脳炎のレメディであり、Op.は脳障害のレメディなのである。今や疑問が出て来る。

Hell.は急性の炎症,又は亜急性の炎症、又は慢性の炎症のいずれを生み出すのであろうか?

このケースの経験から、Hell.は亜急性の炎症を生み出すと言って間違いないのではなかろうか?Acon.は急性炎症を生み出すことでよく知られている。そして、Hell.は亜急性炎症を生み出し、そして慢性炎症はSulph.のようなは慢性レメディによって生み出されると今は言うことが出来る。Hell.の病因は脳の亜急性炎症を生み出し、そして治癒することは今や明らかであろうと思われる。

しかし、このことについて我々がハッピーだったのはほんのわずかな間だけだった。つまりケントのレパートリーHell.の次のような記述を発見するまでである。そこでは、Hell.は髄膜炎の項目で、大文字(3点評価)で出ているのである。ところが、脳の炎症の項目ではイタリック(2点評価)しか与えられていないのだ。さて、この情報を見てどう考えたら良いのでしょうか?Hell.は髄膜炎と脳炎のどちらを引き起こすのか?それは両方共に与えられている。これは間違った情報なのだろうか?もしそうではないとするなら、では一体Hell.とは何だろうか?その作用領域はどこだろうか?

一方、このレパートリーには、MINDの項目にもRUBRICSがある。「愛、から発症、失望した(〜失恋から発症)」ここで再びHell.はイタリック(2点評価)で出て来る。これは失恋の結果として髄膜炎と脳炎が起きたということを意味しているのだろうか?我々は失恋のケースにおいてのみ使うべきなのだろうか?

こうした考えをすると混乱してしまう。事実はこうである。

Hell.は髄膜炎を生み出すわけではない。そして、ウイルス性脳炎を生み出すわけでもない。ウイルス性脳炎は、ウイルスによって生み出され、髄膜炎は髄膜炎を引き起こす有機体によって生み出されるのである。失恋はHell.によって生み出されるものではない。他の何かによってである!Hell.はそれらを生み出しはしない。Hell.が生み出すものは、ある「存在の状態」だけなのである。それが中心の状態であり、その主要な特徴は”感覚の鈍麻”である。その人の感覚は鈍くなる。彼は目は開いているが見ることが出来ない。これがHell.の中心にある状態なのである。そして、それが見つけられるところはどこであろうと、いかなる患者であろうとその病名が何であろうと、髄膜炎であろうと脳炎であろうとそのどちらであろうと、Hell.の状態では、Hell.だけが治癒をするであろう。

もしそれが感覚の鈍麻を伴う髄膜炎ならHell.で治癒されるだろう。もしそれが感覚の鈍麻を伴う脳炎ならHell.で治癒されるだろう。Zinc-met.は神経システムの興奮を生み出すだろう。だから、それは軽い亜急性テンカンであろうと髄膜炎であろうと脳炎であろうとそれが神経システムの興奮を伴うものであるなら、つまりZinc-met.の状態であるならZinc-met.で治癒されるであろう。

「個々のレメディがそれぞれの中心の乱れのタイプを生み出す」

Hell.が病理を生み出すことはないーそれはそれは脳に影響することも髄膜に影響することもない。それは中心の状態を生み出すのである。中心の乱れをである。それはつまり感覚の鈍麻という状態である。これが見出されたところではどこでもHell.だけが治癒するであろう。

ある人がいたとする。彼は失恋した後に、あるところにじっと座り、ぼんやりとしたままであったとする。彼の耳は正常だが、聞こえない。そして彼の目も正常だが、見ることが出来ない。彼は脳髄膜炎を患っているわけでもなく、こういう状態にあるだけである。
その時、もし誰かがホメオパシーを知っていて、何が病を治すのかを知っていて、彼にHell.を与えたら治る確信のもてる人がいたなら、そしてこの内容をレパートリーの中にレメディを記録したなら、あなたは以下のことを目にするであろう。

もしあなたの気持ちが病理にとらわれていて、どのレメディがどの病理を生み出すのか?ということにとらわれているなら、あなたは間違った方向に進むであろう。”Acon.が炎症を生み出すんだ”などと言ったら、それこそナンセンス!である。Acon.はその中心の状態において大混乱と猛烈さを生み出す。この猛烈さが恐怖から来るものであろうと精神錯乱から来るものであろうと、髄膜炎又は脳炎から来るものであろうと、それがチャンスの時に起きて来たものであろうとAcon.の状態でありさえすれば、Acon.だけが治癒するであろう。

例えば、あなたは小指に痛みを持った男性に会ったとしよう。痛みがひどくて彼はこう言う。「ドクター。何かしてくれ。さもないと私は死ぬ」あなたは、Acon.の作用領域が小指にあるかどうかなど調べようともしないだろう。Acon.に作用領域などない。ホメオパシーのいかなるレメディも作用領域などないのである。レメディはどこかの領域に行ってそこに留まったりはしないのである。ポテンタイズされたレメディは動的な影響のみしか持たない。その影響するところは中心なのである。この中心の乱れこそが治癒されるべきものであり、それは決して病理ではない。

あなたは、マテリアメディカをもっともっと自由に使うことが出来る。あなたは可能な限りはるかなレベルまでそれを広げることが出来る。あなたはいかなる状況においてもどのようなレメディをも使いこなすことが出来るーもし、中心のアクションにマッチするならであるが・・。それさえ出来れば、あなたは成功できるであろう。


※060203 第11章を持ちまして、当翻訳を一旦お休みさせて頂きます。

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